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ともかく、ルーカスが監督に復帰した新三部作では、人間ドラマの演出も著 しく浅薄になった。 元来、ルーカスは、芝居の演出が不得手である。この作品でとくに気になる のは、アミダラの棒読みのような口調。合成や特撮とは、まったく関係ない、 基本的なことなのに、なぜこんな投げやりな芝居にOKを出したのか、理解に 苦しむ。結局アミダラには、きれいな着せ替え人形以上の役割を期待していな いようで、旧三部作のレイアを創造した人間とは思えぬ、変わりようだ。 また、ドラマが盛り上がらないもう一つの原因は、感動の余地を与えぬほど の慌ただしい編集にある。これも、ルーカスの関心が、人間ドラマよりも視覚 的な快楽、つまり特撮に注がれているからだろう。 特撮では、仕掛がバレないように、短いカットを重ねていくことが編集の基 本になっている。こともあろうに、ルーカスはこの手法をドラマ部分の編集に 持ち込んでいるのだ。 もっとも、新三部作では、ありとあらゆる場面に複雑な合成が入り込み、も はやドラマ部分と特撮シーンの区別が明確ではなくなっている。 第1作『スター・ウォーズ』は、スピード感のある編集で軽快なテンポを作 りだし、革命的だった。しかし新三部作は、カットの切り替えがあまりに早す ぎて、感動の余韻に浸る暇もない。 しかも全体の流れにメリハリがなく、一様に早すぎる切り替えのせいで、ま るで次から次へとどんどん絵が変わる紙芝居のようだ。 アナキンと母親の悲しい別離のシーンも、無惨なまでにアッサリとしている。 CGを含め、これだけ高度な特撮技術を導入しておきながら、なんとも、も ったいない話である。 |
さらにもうひとつ、『スター・ウォーズ』の世界に不可欠なのが、音楽だ。 だが、その音楽までもが、空疎に聴こえるのは、どういうことなのだろうか。 今回も、第1作からずっと音楽を担当しているジョン・ウィリアムズが手が けているのに、何かが違うのだ。 旧三部作では、各シーンの登場人物の心の動きを代弁するような、丁寧な曲 作りがなされていた。音楽と画面が、完全に一体化して、同じベクトルでひと つのシーンを表現していたのである。 ところが、新三部作では、音楽が画面から遊離しているように感じることが 多い。『スター・ウォーズ』サーガでは、伝統的にほぼ全編に音楽が流れてい るが、新三部作では、スクリーン上の状況とは関係なく、惰性で音楽が流れて いるようなシーンが目だつ。盛り上がりが欲しいところで、淡々とした曲が流 れ、かえって音楽が邪魔をして、感情的に入り込めないシーンもあるほどだ。 老いを迎えたジョン・ウィリアムズの感性が衰えたせいかもしれないが、最 終的には、ルーカスの責任である。 繰り返すが、新三部作は、銀河共和国の衰退と帝国の勃興の過程を辿る作品 群だから、ストーリー自体が退廃的なのは、うなずける。 だが、これまで指摘してきたように、主人公たちの描写のあり方や製作者の 姿勢にまで、本末転倒な退廃ぶりが窺えるのである。 ITバブルに沸く米国で、ルーカスもCG技術という魔法を手にして有頂天 になり、すっかり魂を抜かれてしまったようだ。 『スター・ウォーズ』サーガは、米国社会の風潮に歩調を合わせるかのよう に、若々しく爽快な冒険活劇から、短小軽薄かつ退廃的な政争劇へと変節した。 |
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