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1999年公開の『エピソード1/ファントム・メナス』は、銀河共和国の辺境の 惑星ナブーをめぐる経済紛争で幕を開ける。強大な通商連合が、関税問題解決 のために、弱小惑星ナブーを武力封鎖した。共和国の元老院最高議長は、外交 的手段による解決を期待し、ジェダイ騎士のクワイ=ガン・ジンとその若き弟 子、オビ=ワン・ケノービを現地に派遣する。 通商連合の船上で攻撃を受けた二人は、これが単なる経済紛争ではなく、裏 に大きな陰謀が潜んでいることに気づく。通商連合はナブーを武力制圧し、ま だローティーンのナブーの女王、パドメ・アミダラは、危機に直面する。 |
ここで疑問が湧くのだが、ローティーンの少女を女王に選出するナブー人の 社会とは、いったいどんなものなのだろう。おそらく、マニア向けの出版物や 小説では詳細に説明されているのだろうが、あくまでもこの映画を一本の作品 として観た場合、単に意外性を狙って取ってつけたような設定で、どうしても 納得できない。作品中でしっかりした理由づけがなされていれば、すんなりと 受け入れられるのだが、そういう説明は見あたらない。 元来、荒唐無稽な『スター・ウォーズ』サーガではあるが、ここまで現実味 が希薄だと、しらけてしまう。 さらに、アミダラも、「私の民が苦しんでいる」などとナブーの人々への思 いを繰り返し口にするのだが、これがまた、著しく説得力に欠ける。 なぜなら、彼女は見かけが美しいだけで、威厳が備わっていないからである。 しかも、無表情でセリフを棒読みするので、何を言っても口先だけのように聞 こえる。 旧三部作のレイアは、容姿こそ端麗ではない(もっとも、これが宇宙的美人 だという解釈も成り立つ)が、いかにも利発で勇敢な女性リーダーらしいオー ラを発していた。レイアなら、頼もしい指令官として兵を率いることができる だろうと、納得できた。 |
ところが、アミダラは、本人に威厳がない上、ゴテゴテした装飾過剰な衣装 を纏い、頻繁にお色直しをする。女王という身分上、正装で職務を果たす必要 があることは理解できるが、まるで着せ替え人形のように、緊急事態でも髪型 やメイク、衣装を取っ替えひっかえするのは、いかがなものか。しかも、その ほとんどが、1990年代後半に米国を席巻した”ゲイシャ・ブーム”に悪ノリし た、バカ殿のような退廃的なファッションだ。 これでは、人民を思う女王というよりは、フランス革命時に、パンをよこせ と決起した人民に「パンがないならお菓子を食べればいいのに」と宣った、浪 費家の王妃マリー・アントワネットに近かろう。 製作者たちは、彼女の資質や能力や人間像の描写には関心がなく、単に視覚 的な快楽を追求しただけではないのか。 しかも、その彼女が気遣う民衆たちの姿が、まったく見えないのだ。彼女が どれほどナブーの民衆の信頼を得ているのか、またナブー人が通商連合の侵略 にどれほど苦しんでいるのか、まるで実感が湧かないのである。とくに、銀河 共和国首都コルサントの元老院でナブーの窮状を訴えるべく、彼らを置き去り にして故郷を逃れた、贅沢な衣装替えにご執心の、無表情な女王ばかり見せつ けられては。 ナブーの民衆たちが登場するのは、ラストの紛争解決後の祝賀パレードのシ ーンのみ。それも、観衆として、沿道で歓喜の声を上げているだけなのだ。 加えて、アミダラの本拠地であるナブーの宮殿は、イタリア風の豪華絢爛な 大建築物。ナブーの街並みもイタリア風で、米国人のヨーロッパへの憧憬が込 められたデザインなのだろうが、ここまで民衆の姿が見えないと、ひょっとし てナブーでは、民主主義のかたちを借りた貴族支配が行われているのではない か、などと勘ぐってしまう。 さらに、アミダラがフセインよろしく影武者を常用するなど、とにかく映画 を観たかぎりでは、民衆不在の権威主義的な貴族趣味やエリート主義がプンプ ン臭うのである。 |
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