鈍感力と敏感力の話である。
ここでは、著者の近衛麗衣氏は、敏感力を持った側の視点で書いている。鈍感力のほうは「気にしない」という強味を発揮して、他人からなにかされても傷つかないという生き方をできることでよく話題にもなる。
では、敏感に感じてしまって傷つく側の人は、どう鈍感力の人と対決してゆくか。カトケン的には、鈍感になって生きてゆくほうが簡単だと感じるが、せっかく身につけてる敏感力を失いたくない人もいるだろう。その場合、もっともっと敏感力を磨いて、初見で相手の魂まで見抜く方向にスキルを持つしかない。そして、初見で見抜けず騙されてしまった場合は、見抜けなかった自分の敏感力に問題があったと自分の能力の問題とし、相手のせいにしないこと。相手のせいにしなければ、相手と自分の間に人間関係のトラブルは発生しない。
どうしても、自分だけの責任にする気になれない敏感者は、「敏感者の方が鈍感者よりも上位にある生物だ」と思えばよい。上位の者が下位者の粗相の責任を取るのは当然のことなので仕方ないとしよう。鈍感者は、下位生物扱いされることなんか気にしないはず、鈍感だから。
日本のようにそこそこ平和で豊かになっていると、人間関係のトラブルは、殺傷や略奪破壊などの実体被害の明確なものごとよりも、言葉や態度など表現方法が原因のものが多いようだ。だから刑事事件になるものでも、言葉や態度で表現し合う仲間同士での事件のほうが、アカの他人との事件より多いらしい。殺人事件も知り合い同士(=過去には良い仲だった同士)での殺し合いの事件が日本人には多いともいわれてる。つまり、突然、暴行されたり強盗されることに武術などで備えるよりも、会話するくらいの仲の知り合いとの感情トラブル回避術のほうが日本では現実的な護身術なのだろう。
近衛麗衣「敏感力」全文(「随筆手帖」転載ではなく著者の原稿です)(pdf) |