次に、東京湾口道路を受け入れる構造について確認した。東京湾口道路が開通
すれば、馬堀海岸ICは通過点になる。出入口は本線から分かれるかたちで整備
しておくと延長は容易である。ところが、2車線の高架橋のまま海岸まで下り、
国道16号と平面交差して終点に至る。また、横浜横須賀道路としては、馬堀海
岸ICが終点であるため、馬堀海岸ICだけでなく、途中に設置された浦賀IC
も狩場方向だけに連絡 するハーフインターになっている。
佐原ICも同様のハーフインターなので、もし、 東京湾口道路が開通すれ
ば、富津方面への出入口は衣笠ICが最初のインターになる。橋を渡って6.1
キロも出入口がないのは構造上不便である。東京湾口道路は長大橋である。橋の
たもとに出入口があった方が保守の観点においても適切だろう。つまり、馬堀海
岸ICに富津側に連絡する出入口を容易に追加することができる構造になってい
る方がよいのだ。しかし、先述のように狩場方向からの2車線の高架構造物 が
着地するのみである。
構造物の機能面に着目すると、東京湾口道路を意識していないと結論づけられ
る。これは東京湾岸道路を完全なサークルにはしないということである。言い換
えると、三浦半島には今後も通過交通が発生しないということでもある。佐原
ICまで開通させたときは、まだ、6車線の東京湾岸道路が貫通し、三浦半島を
通過して、房総半島と東海道軸を短絡するルートが整備される可能性があった。
そのため6車線化の準備をしていたが、今回の全通で、それは諦めたということ
だろう。大断面トンネルはいつまでも2車線のままで、広大なインターチェンジ
の長いアプローチも夢の跡という ことになりそうだ。
しかし、線形だけは当初計画そのままである。
馬堀海岸ICの先はまっすぐ富津岬を向いている。国道16号との平面交差
は、その線形では斜めに交差するため、やや左にカーブさせて直角交差のT字路
にしている。 |
◆地図3
東京湾口道路計画路線図
馬堀海岸ICまでの線形をそのまま伸ばすと千葉県富津市の東京湾岸道路に接続
する ことがわかる。
(1984年、建設省関東地方建設局東京湾岸道路調査事務所発行の「東京湾環
状道 路調査概要」から引用。) |
◆写真7
横須賀市桜が丘、神奈川県道208号オーバークロス部、馬堀海岸IC方向をの
ぞむ。
(2009年4月29日、著者撮影。) |
◆写真8
横須賀市馬堀町、京浜急行本線オーバークロス部、馬堀海岸IC方向をのぞむ。
海を隔てて正面に見えるのが浦賀水道に浮ぶ海堡である。富津岬は、この先の右
カー ブの正面に見える。
(2009年4月29日、著者撮影。) |
◆写真9
横須賀市馬堀海岸、馬堀海岸IC。
正面をまっすぐに進むと富津市の東京湾岸道路に至る。この線形では国道16号
と斜 めに交差するので、左にカーブさせて直角に交差させている。 |
東京湾アクアラインは交通量が少ないと批判されてきた。それでも1日
20000台くらいは利用している。首都圏では少ないかもしれないが、全国の
高速道路の交通量に比べれば少ない方ではない。東京から放射状の道路では、東
北自動車道の仙台以北、常磐自動車道の日立以北、関越自動車道の沼田以北は、
アクアラインよりも交通量は少ない。ほかには北陸自動車道のほぼ全線、中国自
動車道の吉川JCT以西も少ない。先ごろの強引な料金割引によりアクアライン
の交通量は増大し、30000台を超えている。ピークには50000台も超え
た。50000台は当初の通行料金ならば建設費用を償還できる量である。東京
湾横断需要は少なくないのである。建設費 用がかかりすぎるのである。費用対
効果が批判される真因である。
今後、もし東海道新幹線や名神高速道路が建設された時期のように、償還期間
に驚異的な高度成長があれば、東京湾口道路を含む湾岸道路の全通は、決して無
駄にはならないものだろう。公共投資は、経済の影響をもろに受ける宿命であ
る。計画は需要だけに着目しているため、需給バランスの見込み違いで批判され
れば大いに反省すべ きだが、経済のような水物の影響まではなかなか配慮しに
くい。
かつての巨大プロジ ェクトはすべて、当時は厳しく批判されている。くだん
の東海道新幹線は、戦前に着手しているのだ。軍部主導で批判を許さない状況で
着手し、戦後封印された。そして需要が封印を解いたのだ。着手から約30年を
経て営業運転を開始した。1964年当時は、着手からずいぶん時間がかかった
と揶揄されていた。しかし、現代は30年ならば早い方かもしれない。冒頭で記
したように横浜横須賀道路は最初の開通から全通までに29年以上を経ている。
着手ということならば39年である。しかも、いま だに東京湾岸道路への構造
変更は棚上げになっている。
当方は歴史より地理が得意なのだが、地図に記載される線は歴史そのものである。
(2009年5月6日、脱稿。) |