ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

松原ジャンクションの変遷4




◆地図(広域)
松原JCTの位置図

◆表1
松原JCT関連の開通一覧
・左の枠は、松原ICとして機能していた期間と、松原JCTの機能へ転換した
期間 を表している。
(この枠の航空写真は、JH吹田管理事務所のWEBサイトから引用している。)

・年とトピックスの枠で、ペールブルーの項目は、松原JCTに接続する高速道
路の 開通を表している。薄い水色の項目は、松原JCTに接続する高速道路の
うち、松原 JCTの交通量に大きな影響をもたらした開通を表している。

・図、写真の枠は、各年代における本報告で添付した図や写真の番号を表している。
 次項以降に年次ごとの変化を記す。1969年(西名阪道路の開通)、
1979年 (阪神高速松原線の接続)、1988年(近畿自動車道の接続)、
1989年(阪和 自動車道の接続)、そしてフルセットランプが完成すると仮
定した2010年の5期 において、主として線形の改造状況をまとめた。な
お、松原JCTの交通量は西名阪 自動車道が1日約10万台、ほかの3路線は
約8万台で、ジャンクションの通過交通 は約18万台である。先述の地方の各
ジャンクションとは比較にならない重交通を担 っている。例えば防音壁の破損
箇所を修理する程度の路肩のみの通行規制でも大渋滞 を引き起こすキーポイン
トである。


【1969年】
 1969年3月21日、一般有料道路西名阪道路として松原ICが設置され
た。松 原ICは西名阪道路の大阪側の終点で、開通したばかりの大阪中央環状
線に接続し た。トランペット型での接続である。大阪中央環状線内回り(北行
き)との接続は右 分岐、右合流になっている。逆に外回り(南行き)との接続
は左分岐、左合流になっ ている。(◆模式図1を参照。)

◆模式図1
1969年3月21日時点の松原ICの路線模式図。
一般有料道路の西名阪道路として開通して、大阪中央環状線の各方向に出入口が
接続 している。大和川を渡る明治橋は、大阪中央環状線北行きは現在も使用し
ている新明 治橋だが、南行きは将来近畿自動車道南行き本線に変換される用地
を使用している。 この時点では、西名阪道路と一般道路の出入口だけの「松原
IC」である。
 中央環状線北行きは最終形の位置に配置されていて、西名阪道路の出入口が暫
定的 に接続されたかたちである。北行きに比べて南行きはユニークな配置に
なっている。 最終形では近畿自動車道南行き本線の位置に配置されている。

 ◆航空写真1では松原 ICの北側の大和川橋梁部(新明治橋)で、大阪中央環
状線の不自然な配置がわかる はずである。大和川には3車線の道路が2本通過
しているが、これらに挟まれる位置 と東側(南行き線の外側)にも橋脚が建て
られている。つまり、ここには3車線の道 路橋が4本並ぶ計画である。最終形
では外側の2本が一般道路大阪中央環状線、内側 の2本が高速自動車国道近畿
自動車道になる。

 なぜ、このような変則な施工に至ったのだろうか。結論を先に言うと、無駄な
暫定 施工を回避するためである。大阪中央環状線北行きとの接続は右分合流だ
が、最終形 では近畿自動車道、阪和自動車道と左分合流になる。挟まれる高速
自動車国道が未開 通のとき、挟む大阪中央環状線と暫定的に右分合流にすれ
ば、最終形への移行時にラ ンプ部はほぼそのまま流用できる。しかも、この運
用では構造物がすべて確保したジ ャンクション敷地内に収まるため暫定的な用
地買収も不要である。

 逆に南行きとの接続では、本来の配置で大阪中央環状線が施工されて右分合流
で西 名阪道路と接続すると微妙に暫定構造物の施工を要する。大和川橋梁部
(およびすぐ 南側の並行する落堀川)と松原JCT分岐のアプローチが短いた
めランプ構造物が橋 梁構造物と重複する。

 橋梁構造物内で分岐しているので、もし外側の大阪中央環状線 からの右分岐
を暫定的に設置する場合は、大和川橋梁の途中に将来不要になる構造物 を設置
しなければならない。大阪中央環状線南行きの最終形の配置は、松原ジャンク
ション構造物を迂回するため大和川橋梁の南側で大きく東側にふくらむ。そのた
め暫 定右ランプを設置するとランプそのものに将来不要な部分も多くなる。

続く