ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

環八通りの77年 8

【1987年】
 この時期の延伸で最も画期的な区間は、環八通りではなく笹目通りの練馬区南
田中 と練馬区谷原2の目白通りと交差する谷原交差点の間である。環八通りは
南田中から 北東方向に曲がって板橋区から北区方面に向かうのだが、まっすぐ
北に向かう笹目通 りが先に開通した。

 本報告は環八通りについて整理したものだが、この時期の環八通りの現状を表
現す る上で、笹目通りを無視するわけにもいかなくなった。本項では笹目通り
を含めた環 八通りの役割について記す。

◆地図4
1987年の環八通り整備状況
 環八通りだけでなく、東京の環状道路は都心を通過しない交通の迂回路や、混
雑す る放射道路からスムースな放射道路への移行に利用されるために計画され
た。ところ が、環状道路は全通しなければ本来の目的を発揮することが難し
い。そのため事実上 東京の環状道路は環七通りだけであった。主要交差点が立
体化された高規格道路だ が、1本だけでは交通集中には耐えられない。

 環八通りは特に需要の大きい東京西部 の環状ルートに計画された。早期に開
通させて環七通りの負担を少しでも軽くしなけ ればならない。もちろん、高速
道路である東京外環道や併走する東京外郭環状線が、 環八通りをはるかに上回
るインフラ供給になるが、全通見込みの目処がたたない以 上、あてにすること
はできない。

 東京を通過する交通のルートについては、インフラの整備状況により変化して
い る。環七通りも環八通りも首都高速もなかった1960年代初頭までは放射
道路で都 心を経て、また放射道路で郊外に向かっていた。このころはモータリ
ゼーションの黎 明期で交通量は現在ほど多くはなかったが、幹線道路は路面電
車に用地を占有され、 また放射道路の規格そのものも低かったので、都下全域
が慢性的に交通停滞してい た。そして、1964年の東京オリンピックで環七
通りが東部を除き直通できるよう になった。

 通過交通は環七通りで都心を迂回することができるようになった。このこ ろ
から1970年代初頭までに首都高速が順次都市間高速道路と直通するようにな
り、北東方向以外では高速道路で通過することもできるようになった。1980
年代 後半まで、関越自動車道、東北自動車道、常磐自動車道を基幹ルートとす
る方向への 高速道路の直結は果たされなかった。そのため、放射道路では目白
通り、水戸街道へ の交通集中が著しく、これらのパンクした放射道路と接続す
る環七通りの混雑も致命 的になった。

 後者(水戸街道)については首都高速が北東方向に延伸したことにより解消し
た。 前者(目白通り)については、笹目通りが環八通りに直通することにより
ある程度緩 和されることになった。

 谷原交差点から笹目通りの延伸区間を経て環八通りに直通し、杉並区内で首都
高速 を含む複数の放射道路に分散するのだ。また、笹目通りの既開通区間は三
園で新大宮 BPに接続しているので、環八通りから新大宮BPに直通すること
ができる。この ルートは東京西部だけでなく、神奈川県、東海道筋から埼玉県
方面へ抜けるメイン ルートに利用されるようになった。

 このルートが確立したときと同時期に首都高速は、6号三郷線が常磐自動車
道、S 1号川口線が東北自動車道へ直結している。ところが、まだ中央環状線
が十分に整備 されていなかったため、いずれもすでにパンクしていた6号向島
線で、千葉方面から の7号、9号が合流する箱崎JCT(ジャンクション)経
由になり、通過時間はとて も信頼できるものではなかった。中央環状線東部区
間が全通している現在でも6号向 島線上りの流れは良くない。そのため、少し
でも通過時間が安定しているルートを模 索すると、環八通り、笹目通りを経て
新大宮BPで埼玉県に向かうルートが案外信頼 できることに気づいた。この
ルートは東北自動車道の筋までならば、首都高速経由よ りも距離が短い。

 新大宮BPで宮原から東京環状(国道16号)を経て岩槻ICから 入るか、
原市から埼玉県道3号(大宮栗橋線)で久喜ICから入るか、いずれかで東 北
自動車道へ接続することができる。岩槻ルートは高速道路の走行区間が長いが、
や や遠回りなので、久喜ルートの方が良いかもしれない。時間差はわずかで、
実際に当 時の交通量の統計資料を見ると、東北自動車道の久喜IC以北の交通
量は以南よりも 多い。この傾向は川口JCTに東京外環自動車道が接続するま
で続いた。

 わかりやすいように整理すると、東名高速道路から東北自動車道(未開通時は
日光 街道)への東京通過ルートは、下記のように変遷していったということで
ある。
1)東京IC→玉川通り→(渋谷)首都高速(入谷)→日光街道
  東京IC→玉川通り→(上馬)環七通り(梅島)→日光街道
2)東京IC(用賀)首都高速(高島平)→新大宮BP→東京環状→大宮栗橋線→栗
橋IC
  東京IC→玉川通り→(上馬)環七通り(豊玉)→目白通り→笹目通り→新大宮
BP→東京環状→大宮栗橋線→栗橋IC
3)東京IC(用賀)首都高速→川口JCT
  東京IC→環八通り→笹目通り→新大宮BP→東京環状→大宮栗橋線→栗橋IC

 上記(3)の環八ルートは画期的に見えるが、このルートには致命的な欠陥が
あっ た。井荻の西武新宿線の踏切である。このルートが確立する以前から踏切
は存在して いたが、交通量が少ないため大問題にはなっていなかった。昼夜を
問わず、大型車が 通過する産業道路に変わり、都内の渋滞ネックとして、これ
まで無名だった杉並区清 水3交差点が有名になった。

 西武新宿線のダイヤは過密で、井荻踏切による交通流遮 断は致命的である。
(ラッシュ時は1時間あたり46分遮断していた。)通過時間は 一概には言え
ないが統計上の平均で77分、当方がラジオの渋滞情報で聴いた最大は 約
180分、体験では約120分である。後に井荻トンネルが開通して渋滞は緩和
さ れたが、このときの経済効果は年間で200億円と言われている。建設費は
640億 円なので、驚異的な効果である。なお、開通直後は確かに数分で通過
できたが、しば らくするとこのルートに交通が集中して、新たな自然渋滞が発
生している。

 アプロー チ区間も含めて約2キロで4車線のトンネルは出入口のない閉塞構
造物であり、計画 交通量をはるかに上回る交通が集中すれば渋滞は避けられな
い。踏切時代に比べれば 随分スムースになったが、井荻トンネルに入らずに側
道を経て2車線の井荻オーバー パスを経由する方が早いときもある。この変則
迂回ルートにも大型車が流れ込むた め、生活道路として設計された側道は本来
の意義を失いつつある。それでも、経済効 果は年間200億円もあるのだろうか。

 環八通りの本来の区間である練馬区方面へのルートが開通して、南田中トンネ
ルと 一体化すれば少しはスムースになるのだろうか。閉塞区間が4キロになる
ので、さら に致命的な渋滞が発生するかもしれない。また、練馬区北町方面よ
りもやはり矢原交 差点方面の交通量が多いような気がする。南田中での分合流
構造(本線は北町方面) が災いして、通過時間が踏切時代に戻ることのないよ
うに祈りたい。

続く