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この時期には、東名高速道路に続いて中央自動車道も接続した。ただし、この 接続 は変則である。中央自動車道は最初に1967年12月15日に調布IC と八王子I Cの間が開通した。この開通は東名高速道路の最初の開通よりも半 年早い。ところ が、調布以東の区間は住環境確保を求めた住民運動により難航 した。そのため都心か ら延伸をすすめてきた首都高速の方が先に開通した。 1973年10月27日に首都 高速4号新宿線が高井戸Rまで開通した。首 都高速が開通するまでは、新宿から調布 ICまで甲州街道(国道20号)を利 用していた。当時は、東名高速道路と首都高速 が直結していないころと同様 に、甲州街道は首都高速の工事により走りにくくなって いた。この工事は甲州 街道本線の交差点立体化も併せてすすめられた。首都高速の開 通により高井戸 Rから上高井戸1交差点までのわずかな区間で環八通りを介して甲州 街道に 至った。都心と中央自動車道を連絡する一般道路の区間は半分になったが、ま だ不便である。 そして、1976年5月18日に中央自動車道の高井戸と調布の間が開通し て、首 都高速と直通するようになった。ところが、この接続はあくまでも本線 の直通のみ で、中央自動車道の高井戸ICは設置されなかった。中央自動車道 と環八通りは接続 していないのである。◆地図3で高井戸Rの位置を敢えて厳密 に環八通りと交差しな い位置に記したのは、このことを表現するためである。 このため、環八通りの杉並区内区間は、首都高速4号新宿線との連絡だけで、 中央 自動車道との連絡に関わる交通形態の変化はほとんど見られない。杉並区 および世田 谷区北部の交通を集めて首都高速4号に流す役目を果たしたのだ。 世田谷区内区間が 東名高速道路の接続により産業道路の様相であるのとは対照 的に広い地先道路という かたちになっている。特に青梅街道と交差する四面道 交差点以北は閑散としていた。 大田区内でも延伸がすすんだが、開通区間が断続的だったためどの区間も本来 の能 力を発揮していなかった。中原街道と交差する田園調布警察署前から南 は、放射道路 と交差しない住宅地の真ん中で途切れていたので、事実上全く利 用されていないよう なものだった。未開通区間を介して矢口1から南蒲田まで 開通していた。なお、未開 通区間は光明寺という寺院の敷地が順調に道路用地 として買収できなかったことによ るものである。本件に関して詳細は省略する。 本報告はあくまでもマクロな視点でも環八通りの運用に関して記しているので、 用地 買収に関わる社会派の話題はなるべく避けている。環八通りのように既存 の市街地に 設置される幹線道路では、本来は避けてはいけないのかもしれな い。計画から開通ま でに半世紀を超える長い期間を要しているのは用地買収が 最大のネックになってい る。この問題は予算との絡み、つまり金の問題そのも のである。別の視点では政治の 問題とも言える。いずれにしても無視はできな いはずである。 しかし、敢えてこれら の泥臭い部分は隠して、脳天気に社会資本としての道 路だけに固執したい。本質的な 問題については多くのジャーナリストに任せた い。当方は道路に関して何でも関心が あるので、泥臭い部分についても多くの 情報を得ているつもりである。どうしても避 けられない問題に遭遇すれば、不 本意だが紹介したいと考えている。 この区間は第一京浜と第二京浜を結び、それなりに利用されていたが、やはり 需要は 少ない。この区間も当時は過剰インフラと言われても仕方のない状態 だったのだ。玉 川ICと田園調布警察署の間も地元住民の生活道路の様相だっ たので、結局、この時 期に環八通りとして本来の機能を発揮していたのは玉川 ICと四面道交差点までの間 くらいだった。ここで本来の機能と記したが、需 要と供給のバランスが良いというこ とである。後にさらに延伸していくと需要 が供給を勝るようになっていったことを思 えば、この時期が世田谷区、杉並区 の環八通りにとっては最も使いやすかったのかも しれない。 当時はすでに10年以上前からパンクしていた環七通りに比べると、同じ 思 想で計画された首都環状道路とは思えない別世界のような感じだった。道路愛称 は 環八通りで通っていたが、利用者の誰もが「環状」道路とは思っていなかっ たはずで ある。単に東京23区の西辺を縦走する幹線道路であり、東京を通過 する機会のある 全国の運転手に有名だった環七通りとは格が違っていた。 本報告はあくまでも環八通りに関する話題を集約しているが、この時期は環七通 りの 需要が最も大きかったと考えられる。東海道筋と東北筋との連絡は、現在 では首都高 速、東京外環道など高速道路で直結しているが、まだ高速道路が直 結していなかった ので一般道路の利用が強いられていた。一般道路の利用は首 都高速5号池袋線の終点 だった高島平から新大宮BP(バイパス)を経て埼玉 県に入るルートが高速道路を利 用区間が長かった。しかしこのルートは首都高 速の利用区間が都心に大きく迂回して いたので、神奈川県方面から続く各放射 道路から環七通りを介して、埼玉県方面へ続 く放射道路に移るルートが主流 だった。 後に首都高速が東京北東方向に伸びて、この ルートから高速ルートにシフト していったが、高速ルートは大回りで、しかも慢性的 に渋滞している都心を通 過しなければならない。静岡から栃木に行くとき、最悪の場 合は首都高速の通 過時間が東名高速と東北道を併せた走行時間よりも多いこともあっ たかもしれ ない。そのため、もう少し信頼できる東京通過ルートを切望した。そし て、環 八通りがその役目を担う時期がやってきた。本件は次項に記す。 |
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