ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

環八通りの77年 5




◆地図2
1969年の環八通り整備状況
 環八通り沿線で1964年の東京オリンピック開催までに開通した高速道路
は、19 64年10月6日に開通した第三京浜道路だけである。しかも多摩川
を渡ってすぐの 京浜川崎ICまでの区間である。横浜市の保土ヶ谷ICまでの
全通は翌年1965年 12月19日である。オリンピックには間に合わなかっ
たが、オリンピック閉会後1 年程度で全通しているので、精力的に工事が進行
していたことになる。

 ここで、オリンピック道路について整理してみる。オリンピック道路は、オリ
ンピッ ク開催日までに開通させるというミッションを受けて突貫工事で建設さ
れた。これら はオリンピック会場や宿舎などの関連施設と空港やターミナル駅
の間を直結する区間 と、くだんの直結路の利用が必然ではない交通を迂回させ
ることにより直結路の交通 を間接的にスムースにする区間がある。

 前者は、先述のように空港と代々木を結ぶ区 間の首都高速が代表的で、後者
は環七通りにあたる。オリンピック会場は都内各地に 分散していたが、多くは
都心に集中していた。港区、渋谷区などに網目状に幹線道路 が整備された。郊
外の会場と直結するルートで、環八通りに関連するものとしては、 目白通りと
笹目通りが最も長い区間になる。
(◆地図2の赤線がオリンピック道路である。)

 ここで理解していただきたいのは、環八通りはオリンピック道路ではないとい
うこ とである。東名高速道路や中央自動車道のように環八通りに接続する高速
道路も含ま れていない。このとき、環七通りと同様に環八通りもオリンピック
道路に指定されて いれば、一気に全通させることができたかもしれない。しか
し、いくら首都での世界 を相手にして大イベントでも、環七通りの整備までで
精一杯だったのだろう。本報告 では道路だけに言及しているが、鉄道では路面
電車から地下鉄へ移行している。

 オリ ンピック開催前、東京の地下鉄は銀座線と丸の内線の2路線しかなかっ
たが、日比谷 線と浅草線を開通させた。浅草線は大門と西馬込の間が間に合わ
なかったが、開通延 長を2倍にさせているのだから相当の出費になったはずで
ある。また、地味だが都下 全域における下水道の整備への負担も大きい。現在
の大イベント開催時の莫大な出費 を強いるインフラ整備に比べれば、まあ納得
できる程度だし、いずれもオリンピック 閉会後すぐに需要が供給を駆逐してい
る。決して過剰インフラではない。いずれにし ても環八通りは単なる財源不足
によりオリンピック道路に指定されなかったというこ とである。

 このような事情により、環八通りは1964年の東京オリンピックで飛躍的に
延伸 することなく、地道に大田区、世田谷区、杉並区で少しずつ開通区間を伸
ばした。大 田区東調布警察署前と世田谷区下野毛3の間、および杉並区川南と
井草3の間は既存 道路の拡幅である。(細かく記せば、雪谷大塚町と東調布警
察署前の区間は新規区間 である。)

 純然たる新規開通区間は世田谷区三本杉交差点と杉並区上高井戸1交差点まで
の区 間である。この区間は武蔵野の地形に沿う方向に田畑が広がっていたが、
環八通りは 等高線と直交するようにまっすぐに北上している。これらの区間の
開通により、中原 街道と甲州街道に挟まれる主として世田谷区の南北方向の利
便性が高まった。環七通 り、甲州街道、玉川通りと併せて世田谷区に井桁状の
幹線道路が整備された。

 1968年4月25日、世田谷区砧公園に東名高速道路が接続した。東京イン
ター チェンジという東京を代表する名称を頂戴して、高速道路時代の幕開けに
なった。す でに先述のように第三京浜道路が横浜まで通じていたが、高速道路
という扱いではな かった。東名高速道路の接続により環八通りの利用形態が変
わった。東京西部の生活 道路から東海道の幹線道路を補間する産業道路になっ
たのだ。交通量の増大も大きい が、それよりも大型車混入率が大きくなったこ
とや、ピーク率の変化が大きい。これ まで夜間は閑散としていたが、昼夜を問
わず重交通を担うようになった。

 東名高速道路の接続当時は厚木ICまでの開通だったが、わずか1年後には全
通 し、すでに開通済みの名神高速道路と直通して東京と西宮の間が高速道路で
結ばれ た。まだ首都高速3号渋谷線は直結していなかったので、東名高速道路
で東京都内に 出入りするすべての車両が環八通りを利用することになった。多
くはすぐ南の瀬田交 差点から玉川通りで都心方向に向かうが、当時の玉川通り
は首都高速の工事により通 行帯が規制されスムースな走行ができなかった。

 そのためさらに南の駒沢通りや目黒 通り、逆に北側の世田谷通りや甲州街道
に迂回する車両も多く、世田谷区内の生活道 路全面に通過交通が分散した。こ
れらの分散交通は環七通りで、さらに都内各地に分 散した。つまり、世田谷区
内の環八通りと環七通りの間が東名高速道路の接続で急に 騒然となったという
ことである。

 なお、首都高速3号渋谷線が東名高速道路と接続したのは1971年12月
21日 である。この接続により世田谷区の生活道路の交通形態はやや元に戻し
た。しかし、 これもわずかの期間である。首都高速は直結当初からすでに致命
的な交通渋滞が発生 し、信頼を失うようになった。また、環八通りの延伸によ
り新たなリンクにも利用さ れるようになっていった。

続く