ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

環八通りの77年 4




◆写真1
世田谷区砧公園
環八通り外回り(北行き)、東名高速東京IC出口から、首都高速用賀R方向を
のぞむ。
環八通りをオーバークロスする首都高速と東名高速を結ぶ高架橋は高い位置を通
過す る。環八本線のオーバーパスを追加できるクリアランスを確保しているの
だが、この 高架橋の追加に着工される気配はない。
(1986年11月16日、著者撮影。)
 世田谷区瀬田付近以外の整備は全く進んでいない。まずは、急速に市街化が進
行し ている世田谷区、大田区西北部を貫通するインフラ整備に集中したよう
だ。なお、環 七通りの整備は精力的に進行している。1964年に開催が決定
した東京オリンピッ クにより、その進行は加速化した。東京オリンピック関連
の道路整備については次章 (1969年)に記す。


【1969年】
 1955年から1969年までの間には、モータリゼーションが急速に進み、
これ までの鉄道主体のインフラ整備から道路主体へと都市の様相が大きく変化
した。ま た、都市の拡大により新たな交通軸への需要が発生した。環八通り
は、東京都心から 遙かに離れた周回路として計画されたが、新たな市街地を貫
通する生活道路にも活用 されることになった。

 ところで、この期間には1964年10月10日に開催された東京オリンピッ
クが 大きな区切りになっている。短期間に多くのインフラが整備された。東海
道新幹線も その一環で開通した。本報告では東京の道路整備だけに言及する
が、目立ったのは首 都高速道路と環七通りの整備である。首都高速は1号羽田
線と環状線(北東区間)、 4号新宿線で羽田空港と代々木の選手村を直結する
区間を開通させた。

 環七通りは葛 飾区と江戸川区の貫通する区間以外を開通させた。当時は東京
東部における南北方向 には交通需要は多くなかったので、既存道路で十分であ
る。環七通りは機能的には全 通したと考えてよいだろう。また、首都高速はオ
リンピック以降も建設が一気に進 み、1969年には1号線が横浜市内に到達
し、2号全線、および3号、4号、5号 が山手通りまで、上野線は入谷まで開
通した。もちろん、オリンピック開催時には南 西区間(浜崎橋JCTと三宅坂
JCTの間)が未開通だった環状線も全通した。

 首都 高速は当初は横浜までの区間以外は、東京都心部の連続立体交差を想定
して計画され た。都市間高速道路との直結により通過交通を一手に引き受ける
つもりはなかったの である。もし、現在も1969年当時の開通区間だけしか
供用していなかったら、交 通集中起因の慢性的な渋滞は発生しにくかったと思
う。しかし、これでは都市間高速 道路が接続する環八通り沿線と首都高速が到
達する山手通りまでのドーナツ状のエリ アに高規格道路が存在しなくなる。品
川区、大田区、目黒区、世田谷区、渋谷区、杉 並区、中野区、板橋区、練馬区
など広い範囲で住環境が破壊されることになっただろ う。

 環七通りと放射高規格道路が交差する交差点(玉川通り、首都高速3号と交差
す る上馬、甲州街道、首都高速4号と交差する大原、中山道、首都高速5号と
交差する 大和町)はしゃべりながら横断すると砂を噛んだようになり、目を擦
ると黒い煤がつ く。ところが、交差点から少し離れると案外静かである。一部
の箇所に大勢を生かす ために犠牲を集約した感がある。首都高速がほかの都市
高速に比べて極端に使えない 存在であることも、大勢の都民の住環境を保持す
るための犠牲なのかもしれない。仕 方がないのかもしれないが、犠牲が大きす
ぎるようにも思える。

続く