◆航空図3
城北JCT(阪神高速守口線、森小路線)
(「阪神高速道路公団三十年史」から引用。)
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実は、森小路線は第二環状線の一部だったのだ。(◆図4)
1960年に大阪府、大阪市によって立案された高速道路計画網では、第二環状線
が明確に記されている。ルートは、17号西大阪線の安治川から神戸方面に淀川まで
延長し、淀川左岸から右岸に渡り、大川(旧淀川)を淀川大堰でオーバークロスして
都島区毛馬で守口線に亘る。守口線で城北JCTを経て森小路線に至る。森小路R
(ランプ)から先は城北運河、城東運河上空を通過して生野区巽南に至る。
ここから
国道25号上空に大きくカーブして、そのまま津守で17号西大阪線に接続する。6
0%が河川用地を通過し、40%が既存※の広幅員街路(国道25号、43号)を通
過する。当時としては無理のない路線設定である。環状線との位置関係も南側が接近
しすぎるが、おおむね等間隔である。中央環状線(近畿自動車道)や湾岸線を組み合
わせた第三環状線との間隔も適当である。
※当時から全区間が既存だったわけではない。津守付近(西成区中開)で国道43号
と25号の直結区間が最後まで残った。
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◆図4
1960年に立案された高速道路路線図。
下図は、当時の阪神高速第二環状線。
(路線図は「阪神高速道路公団三十年史」から引用。)
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ところが、万博まで10年足らずのこの時期には全体計画を順次開通させる余裕は
ない。先述のように万博用の急務路線を選定することになった。(◆図5)
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◆図5
1962年9月18日に都市計画決定した高速道路路線図。
下図の緑線は、計画通り1970年3月15日までに開通した路線。
橙線は計画線。
(路線図は「阪神高速道路公団三十年史」から引用。)
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第二環状線は、北側の区間がなくなり消滅した。よく見ないと気づきにくいが、北
側の残った区間もルートが、大阪市内方向(南側)にずれている。17号西大阪線の
安治川R以西は淀川に到達する手前の此花区の正連寺橋で正連寺川の敷地を経て、海
老江で淀川左岸至る。ここから豊崎まで進み、豊崎からは北上して千里丘陵に向か
う。豊崎以北は、現在の新御堂筋(国道423号)である。
このように第二環状線を成さなくなったが、森小路線を含む城北運河、城東運河を
経て国道25号で津守に至る区間は残されている。つまり、森小路線は第二環状線で
はなく、大阪市東部を縦貫する大阪市のラダーネットに組み込まれているのである。
城北運河、城東運河を経る都島区、旭区、城東区、東成区、生野区から東住吉区を
縦貫するルートには是非とも高速道路を通したかったのである。先述のように幅員4
0メートルの運河は、高速道路を建設する空間には適当で、大阪市東部の交通需要を
一手に引き受ける画期的なルートなのである。
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