【経緯】
つぎに、森小路線の開通経緯について記す。(◆表1)
森小路線の開通時期がとても早いことがわかる。森小路線が開通した1968年5
月1日時点では、環状線と池田線、それに神戸線の一部しか開通していない。守口線
すら城北JCTから郊外の区間は未開通である。それほど重要な路線だったのだろう
か。(◆図2)
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◆表1
阪神高速道路開通経緯。
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阪神高速道路だけでなく大阪地区の高速道路の整備は、1970年3月に開催され
た大阪万博が第一目標になっている。都市間高速道路では、東名高速道路と名神高速
道路を直通させ、万博会場付近の中国自動車道と近畿自動車道を開通させる。阪神高
速道路は、環状線と伊丹空港を直結する11号池田線※、京都方面の12号守口線
※、堺方面の15号堺線※、環状線を短絡する16号大阪港線※および13号東大阪
線の船場区間※、それに名神高速の終点西宮IC以西の神戸線を開通させることが至
上命令だった。
これは、大阪万博開催が確定してからの緊急対応である。ところが、大阪地区の道
路交通需要はそれ以前から大きかった。
※路線番号
路線番号は、現在の番号を記している。建設当時や開通直後は、この番号ではなか
った。アルファベットの路線番号が付されていた時期を経て現在のナンバリングに至
っている。ナンバリングの経緯については本報告の主題には関係がないのでわかりや
すさを第一に考え、敢えて現在のナンバリングに統一している。
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◆図2
1968年5月1日までに開通した阪神高速道路路線図。
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◆図3
1970年3月15日までに開通した阪神高速道路路線図。
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当初の道路計画は大阪府、大阪市主導で1960年に構想を発表している。この構
想では、2環状5放射で神戸方面、堺方面の大阪湾岸地区、および北部の伊丹空港、
京都方面、それに万博会場となる千里丘陵方面に連絡している。当時は真東の東大阪
方面(現在の13号東大阪線)や、河内方面(現在の14号松原線)には計画線は延
びていない。現在では考えられないが、これは首都高速の当初計画に千葉、埼玉方面
が含まれていなかったことに似ている。全方向に市街地が広がっていたわけではなか
ったのだ。
その後、高速道路の建設主体が阪神高速道路公団に移り、1962年に具体的な着
手区間が確定した。環状線,池田線、守口線と森小路線、堺線、それに西宮以西の神
戸線などである。当時の万博は相当なインパクトがあり、これらの着工線のうち、間
に合わなかったのは、守口線の城北JCTから郊外の区間だけである。(◆図3)
本報告では詳細は記さないが、路面電車を撤廃して地下鉄6路線がまとめて開通し
たのもこの時期である。(御堂筋線だけは以前から開通していたが、この時期に終点
を延長し全通させている。)
大阪万博は予定入場者数を大幅に上回り、史上最大のイベントになった。万博会場
建設、運営の費用を遥かに上回る公共投資を行い、大阪地区の交通インフラは格段に
利便性を高めた。現在のような低成長期ならば破綻は間違いないが、当時は成長期で
インフラは有効に活用された。
東京地区でこのようなインパクトのあったイベントは
1964年の東京オリンピックである。首都高速をはじめとする幹線道路の整備は一
気に進行したが、それから40年を経た現在でもやり残し(環状3号、4号、5号、
8号、首都高速内環状など多数)があるのに比べて、大阪万博はやりきった感があ
る。東京はオリンピック以降も着々とインフラを整備し続けたが、万博以降の大阪の
インフラ整備は遅々としている。放射線は、3号神戸線、13号東大阪線、14号松
原線が全通し、湾岸線も開通した。しかし、第二環状線はなかなか整備されない。首
都高速環状線に比べて、阪神高速環状線はやや余裕があるが、そのまま放置しておく
わけにはいかない。やはり第二環状線の需要はあるのだ。
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