ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

植田IC 2




◆地図1
植田IC付近地図。(1969年)
R153、R302ともにすでに計画されていたが、区画整理も一見未着手。
赤線の上下方向がR302、左右方向がR153である。
この地図では、名古屋市昭和区に属している。
(アルプス社1969年発行「名古屋区分地図帳」から引用。)

◆地図2
植田IC付近地図。(1976年)
R153、R302ともにすでに計画されていたが、道路用地は後回しにして居住区 
の地盤改良を先行していた。
赤線の上下方向がR302、左右方向がR153である。
(国土地理院地形図1976年発行「名古屋南部」から引用。)
 区画整理事業は1963年から実施しているが、1969年の地図(◆地図1)で 
は、まだ表面化していない。R153とR302の計画線を赤線で表記しているが、 
これらの交差部(植田IC)の右下(南東)の梅が丘地区で少しだけ整理済みの箇所 
が見られる。
 1976年(◆地図2)では、多くの箇所が区画整理済みになっている。このころ 
にはR153の計画線も明確に表記されている。ただし、植田IC付近は等高線が密 
になっていて、まだ原地形を留めていることがわかる。
 植田IC付近の丘陵はゆるいものではなかった。1969年の地図では権現山と記 
されている。この地図では地形まではわからないが、1976年の地図は地形図なの 
で、どの程度の「山」なのか理解できるだろう。権現山は全域が雑木林で地図に見ら 
れる道路はすべて未舗装か簡易舗装の細い山道だった。新池の辺に植田小学校が見ら 
れるが、かなり近づかないと校舎が見えないほど深い森だった。1976年にはほと 
んどの森が伐採されて整地を待つばかりになっていた。
 R153、R302ともに計画を知ったときは、まだ丘陵の深い森だったためトン 
ネル構造で貫通させるものと思った。交差する植田ICは山頂に程近い位置だったの 
で、地下にジャンクションを設置するのかとも思った。まさか、区画整理で地形その 
ものを変えてしまうとは、そこまで考えが及ばなかった。高度成長期以前の環境につ 
いて問いかける余裕がなかった時代だから可能だったのだろう。横浜市の北部地区(港 
北ニュータウン)、大阪北部の千里丘陵(1970年の大阪万博関連)とほぼ同時期の 
同規模の区画整理である。なお、名古屋市の区画整理は天白区だけでなく守山区、名 
東区、緑区と東部のすべての区域に及んでいる。いずれも縦(南北)方向に名古屋環 
状2号が貫通する計画で、これらの大規模区画整理は名古屋環状2号の道路用地を確 
保するために実施されたかのように見える。

◆航空図2
 植田ICの北側のR302における道路造成地(画像の黄土色の部分)は高針JC 
Tで、この左側(西側)の名古屋高速2号東山線および高針JCT以北の東名阪自動 
車道は、2003年3月29日に完成した。航空図撮影時点では下部工の基礎工事の 
みで、派手なジャンクション部分の上部工には着手していない。
(2000年5月10日撮影。国土地理院WEBサイトから引用。)

◆地図3
植田IC付近地図。(2002年)
R153、R302ともに開通済み。区画整理も終了。ただし、R302は外回り 
(南行き)車線で交互通行。今後は、内回りおよび中央帯の東名阪自動車道が順次追 
加される。また、R153は4車線で開通しているが、植田ICアンダーパスが追加 
される。
(国土地理院地形図2002年発行「名古屋南部」から引用。)
 2002年の地形図(◆地図3)では、整然とした街路に網羅されて等高線が見難 
くなっている。少なくとも原地形の「山」がすべて削り取られたことは理解できると 
思う。1969年のままの地形は、植田IC北東の牧野ヶ池緑地の東山ゴルフ場だけ 
である。ここはゴルフ場なので1969年の時点ですでに原地形ではないのだが。ま 
た、点在していた溜池もすべて撤去されている。ただし、この地区がすべてフラット 
な地形になったわけではない。あくまでも居住区画がフラットになるように(段々畑 
のイメージに)地形改造されただけで、平坦な地形の多い名古屋市においては眺望が 
効く丘陵地には変わりない。
 すでにR153、R302は開通している。これらの道路敷地が低くなっているこ 
とは理解できるだろうか。原地形を知らなければ谷地を選んでルート設定したように 
見える。実は、深く切り取っただけで原地形の等高線には関係なく短絡ルートを選択 
しているのである。

◆画像1
名古屋市天白区鴻の巣2
植田IC工事現場全景。
植田ICの北西角からR153豊田方向、平成橋を撮影しているが、特別高い位置か 
らの俯瞰ではない。道路面が周辺の位置に比べて深く掘り下げられているのである。
(2003年4月7日、著者撮影。)

続く