ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

東京アンダーグラウンド3



 1920年代の銀座線開通以前に開通していたという件は、あまりにも工期が短か 
すぎて信じ難い。1930年代は、十分考えられる。戦前は、政府主導の公共投資に 
とってはある意味好景気なので、区間延長は可能である。ただし、当時の土木技術で 
土かぶりの浅い位置にシールドトンネルを縦横に掘って、広大な地下空間を建設でき 
たのだろうか。オープンカットで地下を掘り下げて、そこに高層建築を建設し、埋め 
戻す方法が一般的と考えられる。当時の炭鉱では確かに蟻の巣状のシールドトンネル 
は存在していた。これは固い地盤で、地上に構造物のない山間という条件で成せるこ 
とで、関東ローム層の都市部では条件が厳しい。
 1940年代の運用はあり得る。ただし、地下鉄のトンネルは部分的に完成してい 
ただけで、ネットワークとは言えないのと思う。

 くだんの書籍では、2000年に全通した南北線や大江戸線についても古い開通区 
間の再生であると記している。確かに、いずれの路線もいびつなルートである。特に 
1920年代の計画線上には掲載されていない大江戸線のルートは複雑である。模式 
図では「楕円」に近い線形だが、実際は直角カーブが多い。これらの路線はすでに存 
在しているトンネル区間の再利用ではないだろうか。トンネルは何も保守しなければ 
75年が寿命である。2000年には寿命を迎える。これらの崩壊を防ぐため、再利 
用と称して補強したり、さらに下に路線を新設するために古いトンネルを埋め戻した 
りした。一見、荒唐無稽な意見だが、当方はこの意見には十分信憑性があると考えて 
いる。古いトンネルはすべてが地下鉄用ではなく、防空壕と考えれば案外つじつまが 
合う。

 街路は防空壕用地には適している。公園や河川の地下も有効である。いずれにして 
も公有地に設置されるはずである。くだんの書籍には、日比谷シティの地下駐車場も 
古い地下構造物の再利用であると記している。日比谷シティは、富国生命ビル、日本 
プレスセンタービル、日比谷セントラルビルの3つのビルで構成されているが、地下 
駐車場は1つの広大な地下空間を共有している。これは、表向きは3つのビルでも土 
地を含めすべてのビルを三菱地所が開発しているのだから当然だろう。このエリアは 
元NHK放送会館だったので、防空壕の再利用の再利用(再々利用)にあたるのでは 
ないだろうか。

日比谷シティHP

◆画像1
 首都高速(C1)環状線、千代田トンネル。
 千代田区永田町1、憲政記念館北側、三宅坂交差点の南側。
 左側の地下区間は、環状線内回り本線。
 中央は、環状線外回り本線。画面奥で4号新宿線との分岐直後で、千代田トンネル 
までの下り勾配区間。
 右の壁の上に、4号新宿線下り線である。ここから社会文化会館の脇をかすめて、 
国会図書館新館北側で青山通りの中央分離帯上の空間に至る。
(1984年5月17日、著者撮影。)
 つぎに、首都高速道路に関する記載に触れる。
 くだんの書籍には首都高速に関する記載は少ない。見つけても地下鉄の件とはタッ 
チが異なり、明言口調にはなっていない。憶測の域を出なかったのだろうか。以降の 
記載は、ほとんどが事実から派生させた当方の憶測である。
 首都高速道路のルートについて、三宅坂周辺(◆画像1)、飯田橋から東池袋にか 
けての区間などが、街路に設定されずに河川や公園などに独自の用地を確保している 
のは、これらの区間の街路地下にはすでに構造物があるので避けていると記してい 
る。街路地下の構造物の有無については不明だが、これを避けているのではない。こ 
れらの街路には当時は路面電車が走っていた。路面電車はメイン公共交通で、首都高 
速建設のために安易に廃止することはできなかった。路面電車の線路敷は道路構造物 
(インフラ)扱いである。既存インフラを除去させて、新たなインフラ(首都高速) 
に取り替えるのは、余程説得力がなければ困難である。まして鉄道と道路はお互いに 
凌ぎを削る仲である。したがって、当時の用地確保の基本スタンスは区画整理などで 
新たな街路に組み込むことで、次に公共用地、最後に既存街路という順で絞り込んで 
いる。黎明期の首都高速路線が既存街路を避けるのはもっともである。

続く