ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

東京アンダーグラウンド2



 くだんの書籍は図が少ない。また、図の多くが問題にしている箇所のズームアップ 
で、全体を理解するにはやはりある程度の予備知識が必要になる。実は、路線図のほ 
かに地下鉄の開通経緯を把握しているとさらに楽しめる。

◆東京の地下鉄の開通経緯
 戦前は銀座線しか開通して
  いないことがわかる。
 断片的には開通時期が記されているが、くだんの書籍だけでは全貌は理解できな 
い。また、75年前に開通していたと考えられる区間についてもその全貌を明示した 
図は掲載されていない。本文を読んで、文脈からその路線を理解するかたちになって 
いる。本件については国家機密に関わることなので明言できないようだが、読者とし 
ては全貌を記した図を見てみたい。
 開通経緯は営団地下鉄、都営地下鉄のHPで容易に確認できる。全路線の開通経緯 
をまとめて、開通時期でソートするとどの区間から順に開通したかがわかる。

◆東京の地下鉄の開通延長
 青実線が累積の開通延長で、1939年から1954年までの戦前戦後の15年間 
は全く開通延長が延びていないことがわかる。1954年の丸の内線部分開通以降は 
順当に開通延長を延ばしている。1964年の東京オリンピックまでの延び方が急な 
ことは理解できるが、その後オイルショックまでの期間もその勢いは継続している。 
1970年代後半からはやや勢いが緩むが、それでも着実に延長を延ばし、大江戸線 
の開通で都営地下鉄としての建設区間はひとまず終了した。2003年3月19日に 
営団地下鉄半蔵門線が押上まで6.1キロ延長され全通する。残す工事区間は明治通 
りを池袋から南下して渋谷で東急東横線に直通する区間だけである。
 赤点線は当方の冗談です。戦前の銀座線における開通延長の延び方をそのまま継続 
させると1970年ころの開通延長に行き当たる。つまり、1954年以降の開通延 
長の延び方は、1939年以降の15年のブランクが1970年ころには埋まったと 
いうことをあらわしている。

 また、開通延長の累積をグラフ化すると、1939年までに銀座線が全通してから 
1954年の丸の内線の部分開通までにブランクがあり、1954年以降は驚異的な 
ペースで開通延長を延ばしていることがわかる。1964年(10月1日)の東京オ 
リンピックまでに、戦前に全通していた銀座線のほかに丸の内線、日比谷線が全通 
し、浅草線が押上から大門まで開通している。わずか4路線だが、中央区の銀座から 
日本橋にかけてのエリアは計画路線のほとんどが開通して地下鉄密度が高くなっている。
開通ペースは東京オリンピックを過ぎても衰えることなく、オイルショックまでの約 
10年間に、浅草線、東西線が全通し、千代田線がほぼ全通(代々木公園と代々木上 
原の区間は未開通)、三田線が三田から高島平まで開通している。

 オイルショック以降は、やや開通ペースが緩むが、それでも着実に開通延長を延ば 
している。地下鉄は建設することに意義があるのではないので、需要と供給のバラン 
スが安定すれば「終了」になる。東京の地下鉄路線は、東京オリンピックのような起 
爆剤はあったが、一過性のイベントに左右されて整備していったわけではない。地下 
鉄以前は路面電車が一面に張りめぐらされていた。ところが、自動車の通行量増大に 
起因して表定速度が落ち、十分なサービスができなくなり新たなシステムとして地下 
鉄に移行している。地下鉄の開通ペースが緩むころには、ほとんどの路面電車は廃止 
されておおむねバスや地下鉄に転換された。路面電車の需要は、この時期にほぼ転換 
済みになったということである。したがって、オイルショック以降は新たな需要に対 
応すべく地下鉄路線が整備されていった。これは、既存の郊外電車の需要や、かつて 
路面電車が通じていなかったエリア(主として山手線の西側)に対応するものであ 
る。また、都心部の既開通区間における集中需要を分散させるねらいもある。

 地下鉄は専門ではないが、このあたりが一般的な評価ではないだろうか。くだんの 
書籍では、これらの地下鉄の多くが75年前には開通していると記している。本当だ 
ろうか。例えば1954年から62年にかけて順次開通させた丸の内線には数箇所の 
地上区間が存在する。1920年代に開通していたとして、地上区間に誰も気づかな 
かったとは考えにくい。鉄道に関心のある人はとても多い。戦前にもすでに鉄道に関 
心のある著名人は登場している。当時の著名人とは作家なので、著作に何らかの記載 
があっても不思議はない。また、地下鉄の下にさらに別の地下鉄が建設されたことを 
示唆させる記載もあったが、なにより当時の土木技術で短期間に複雑な地下構造物を 
秘密裏に建設するのは難しかったのではないだろうか。それでもトンネルは完成して 
いたとして想定しても、地下鉄が走っていたというのは考えにくい。

 現在の地下鉄とは異なるシステムだったのではないかと記している。トロリーバス
のようなシステムかもしれないとも記している。ところで、丸の内線だけでなく19
70年代以前に開通した地下鉄は土かぶりの浅いトンネル構造になっている。歩道を
歩いていると、換気口から走行音が聞えてくる。東京だけでなく、大阪、名古屋、
ニューヨークやパリでもその当時の開通区間では一般的な現象である。トロリーバス
だとしても何らかの音が漏れるのではないだろうか。先述のように、1920年代に
はすでに鉄道に関心のある作家はたくさんいた。建設に関わった大多数の関係者が口
を閉ざすのは理解できるが、反骨精神を持つ作家の口を塞ぐことはできないと思う。

 いずれにしても、着工はしていたとしてもほとんどが開通に至らなかったと考える 
のが普通ではないだろうか。確かに戦前には思い切った計画が実施されている。有名 
なところでは、東海道新幹線の着工である。1964年に開通した東海道新幹線は戦 
前に着工していて、日本坂トンネルは貫通していた。(貫通した日本坂トンネルは、 
東海道新幹線が開通するまでの一時期、東海道線のトンネルとして使用された。)多 
くの線路用地も確保済みだった。戦況が悪化して中断し、1950年代後半に再開さ 
れた。短期間で大阪まで開通させることができたのは、用地が確保済みだったことに 
起因している。これは、東京の地下鉄の開通経緯と似ているような気がする。193 
9年から54年までのブランクは、東海道新幹線の工事中断期間と一致する。着工し 
ていた地下鉄トンネルを掘り出して改修して、既に車庫用地が確保済みならば、驚異 
的なペースで開通延長を延ばしたことは十分に理解できる。
 戦後、占領軍による利用だけでなく、占領軍による工事継承を示唆させる記載もあ 
った。荒唐無稽とは言えない。十分考えられることだと思う。それにしても全通させ 
るにはあまりにも期間が短すぎる。

 整理する。
(1)1920年代
 1923年9月1日の関東大震災の復興街路計画で、地下鉄も同時に着手された。
(1927年に銀座線の上野と浅草の間が初めて開通したが、実はすでに多くの区間 
が完成していた。)
(2)1930年代
 1939年に銀座線が全通したが、これまでの期間は銀座線だけを工事していたわ 
けではなく、秘密裏に多くの区間の工事を進めていて、ほぼ今日のメトロネットワー 
クは完成していた。銀座線だけが一般供用され、ほかの路線は主として政府関係者に 
利用されていた。
(3)1940年代
 銀座線以外の開通区間は占領軍が利用し、さらに延長を延ばしていた。
(4)1950年代
 1954年の丸の内線部分開通以降、順次すでに開通していた区間を一般供用させ 
ていった。

続く