ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

遺跡となった名神高速今須旧線(道の川柳・森川晃)1



 名神高速道路は、日本で初めて開通した都市間高速道路である。具体的に計画
されたのは、1956年に発表されたワトキンス調査団による「名古屋・神戸高速道
路調査報告書」が契機になっている。欧米では、高速道路の有効性は認められてお
り、必要不可欠のものとされていた。ところが、当時の日本は国道1号ですら全線舗装
されていない状態で、主たる交通施設は鉄道だった。それでも、多くの実験的要素を
含めたかたちで名神高速道路に着手した。
 
  <<< 
  1978年7月22日、中日新聞記事。
 (航空写真は、黄ばみが激しく見難いので、
 「日本道路公団三十年史(1986年4月発行)」から
 同様のアングルの写真を引用して差し替えています。)
 開通に先立って、1963年5月25日〜6月30日に栗東IC−京都南IC
間を無料にした。

その後、
  1963年7月16日 栗東IC −尼崎IC  71.1キロ
  1964年4月12日 関ヶ原IC−栗東IC  68.9キロ
  1964年9月6日  尼崎IC −西宮IC   7.0キロ
             一宮IC −関ヶ原IC 34.4キロ
  1965年7月1日  小牧IC −一宮IC   8.3キロ

と、順次開通していった。
 
  <<< 
 今須改良区間の位置図。
 さて、名神高速道路が開通していろいろな問題点が生じてきた。開通当時は時
速100キロで安定走行できる自動車が少なかったし、多くのドライバーが経験した
ことのない速度だったため最低速度50キロ未満で走行する車両が多発した。自動車
による長距離旅行が一般的ではなかったためガス欠も多かった。また、一般道路と立
体交差する都合で高い位置に建設されたため眺望がきくので、駐停車禁止にもかかわ
らず路肩に駐車して、道路法面でピクニックをする家族連れまで現れた。交通量の多
い現在ではとても考えられないが、当時はこうしたのんびりしたトラブルが発生して
いた。
 さすがに東海道の幹線なので、このようなのんびりした時代は長続きせず、大型貨
物車両の走行比率の大きい産業道路になっていった。交通事故は交通量に比例して
多くなるものだが、事故多発の特異点が存在することがわかった。それが今須区間
である。
 
  <<< 
 今須改良区間の詳細位置図。
 図中の番号は、以下の画像の撮影位置。
 今須区間は、南北方向から東西方向へのほぼ直角に曲がる曲率半径の小さいカ
ーブ区間である。きついカーブ区間は、現在でも中国自動車道の北房IC−新見IC
間などに存在するが、今須カーブの事故件数は尋常ではなかった。下り線において
は、関ヶ原側に小さなピーク(山越え)があり、今須カーブへは緩い下り勾配で右に大
きくカーブすることになる。下り勾配の右カーブがハンドル操作を誤りやすいことは
現在では定説になっているが、当時は事故例が少なく計画時には考慮されなかった。
また、上り線においては、関ヶ原トンネルを含むほぼ直線状のゆるい右カーブか
ら、急にきつい左カーブに至る。上下線ともに名神高速道路での最大級の危険ポイント
だった。

  <<<
 今須カーブ区間全景。
 関ヶ原IC側からカーブ区間をのぞむ。
 この画像は、名神高速道路開通直後のもので、
 今須トンネルを含む今須改良区間には全く着手されていない。
 (「名神高速道路」(建設界社 1965年11月発行)から引用。)
 事故防止のため、早くも1976年には線形改良に着手した。縦断勾配の緩和
と曲線半径の緩和のため、関ヶ原側の峠越え区間と今須カーブそのものを廃止して、
前後区間のカーブに連続する全体にゆるいカーブの新道を建設することになった。今
須改良区間は、1978年10月2日に開通し、旧線の2.9キロは今須トンネルを含む 
短絡化で2.5キロに400m短くなった。1964年4月の開通から14年6ヶ月という
極めて早い対応である。

 <<< 画像1
 今須トンネル関ヶ原口から今須改良区間起点をのぞむ。
 旧線跡地は、冬季のみ名神高速下り線の
 除雪基地として活用されている。
 (2002年8月13日、著者撮影。(以下すべて))
 今須改良区間の開通した1978年は、7月に沖縄で左側通行への切り替えが行わ
れている。当時は、まだ中央自動車道も関越自動車道も中国自動車道も東北自動
車道も全通していない。新規開通区間の延長を伸ばすことに全力が注がれている時期
に、高速道路建設黎明期の記録を消すかのような素早さでの線形改良に改めて驚かさ
れる。おそらく、今須改良区間についてご存知の方は少ないと思われる。当方も旧線時 
代は自動車免許を持っていなかったので、運転して通過したことはない。それで
も、バスなどに乗車して通過する機会はあったので、少しは記憶に残っている。

 今回、ルート切り替えから24年たった旧線跡を歩いてみた。鉄道の廃線跡を
歩くことがある種のブームになっている。現在廃線になっている区間はほとんどが単
線で線路敷は狭い。軽便鉄道にいたってはゲージが狭いのでさらに狭い。自然に戻っ
ている区間が多い。しかし、4車線の高速道路の幅員は広く、容易には自然には戻ら
ないだろう。

 <<<画像2
 松尾山麓の切り取り区間のピークから
 今須トンネル関ヶ原口(今須改良区間起点)方向をのぞむ。
 旧線での最高地点にあたる。(標高155m)
 旧線の関ヶ原側から松尾山麓の切り取り区間のピークまでは、日本道路公団の
管理地になっている。鉄柵に「日本道路公団」のプレートがかかっている。路面跡は
簡易舗装されているが、旧線の舗装跡とは思えない。管理地内を行き来するために舗
装しなおしたと思われる。

  <<< 画像3
 切り取り区間南端から今須カーブ区間への
 渡り区間のボックスカルバート※1。
 唯一の旧線に関わる残存道路構造物。

  <<< 画像4
 ボックスカルバートに「彦根117」のプレートが
 貼り付けてある。
 切り取り区間の路盤はほぼそのまま残っている。ピークから米原側のボックス
カルバートまでの土地は民間に売却され、路盤に某企業の建物が建っている。法面に
は特に補強の跡はない。開通当時の施工が堅牢だったのだろう。

※      1 ボックスカルバート
 盛り土の中を横断するスパンの短い橋、人道トンネル、水路などを目的とした
構造物。

  <<< 画像5
 関ヶ原起点から今須カーブ区間跡をのぞむ。
 盛り土は撤去されている。正面の道路は、
 盛り土撤去後に作られたものである。
 元々の高速道路脇道は、ピーク部は高速本線の西側を並行していて
 画像3、4のボックスカルバートをくぐって東側に移行していた。
 盛り土撤去後、クランク状の脇道は直線に改良された。
 現在、ボックスカルバートは通行止めにはされていないが
 事実上利用されていない。
 旧線跡には家屋を建設中である。

続く