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シャミール・バサエフ戦死までの日々2




この写真、中央の2人とシャミール・バサエフの関係は怪しい。
1人はロシア語喋れないアメリカ人、もう1人はかなりの人脈を持つロシア人。

アメリカ人は、シャミール・バサエフの部隊に「必要な物資を届けるための前段
階視察のために来た」と言っていた。「アメリカのビジネスマンだ」とも。
確かにアメリカンイングリッシュだ。

「シェルターとか通信施設とか、他にも必要な物の調査で・・」と。
「人道支援か?」と訊くと「人道支援も、ゆくゆくは考えてのうえで」と。
 暗黙の了解でつまり「人道屋ではない」ということ。
 「軍事情報支援」のようだ。

このアメリカ人、戦場にはあまり慣れてないようで、日中に地上に出てきたのは
1回のみで、そのときもかなり動きが浮いていた。ロシア人のほうがかなり
場慣れしていて落ち着いていたが、地下室からは日中は一度も出てこなかった。

この2人は、ロシア軍包囲下のシャミール・バサエフ部隊を日帰りで行き来して
いて、1回だけ1泊していったことがある。シャミール・バサエフの依頼で、こ
の2人については今までの出版媒体では一切触れていないが、バサエフ死じゃっ
たしってことで・・・。でも、顔はぼやかしておこう。

ロシア人は、マスハードフ参謀長(のちの大統領)ともアポを取りつつの移動を
していた。たまたま、グロズヌイ包囲網から脱出してきた私がシャリという町で
うろうろしていたところ、この2人組と再会し、マスハードフとも会った。しか
しマスハードフは、私のことをかなり敵意に満ちた目で見つめると、その建物か
ら出てゆくように言われてしまった。しかたなしに、私とバサエフ派部隊の
兵士2人は、トボトボとシャリの町から離れたのでした。
1995年2月7日。マスハードフと初対面したとき。
マスハードフは外国メディアには対応が良いという評判だが、私は3回会って3
回とも無視された。のちの推測で、私がシャミール・バサエフ部隊の兵士と一緒
に行動していたから嫌われたのかもしれないという見方も出たが、上述の2人は
マスハードフともバサエフとも良い関係を維持していたようだ。

上記の2人は、チェチェン独立派へ武器援助をしている勢力から派遣されたとみ
るのが自然だろう。ロシア軍の検問をあまりにもスムーズに抜けてしまえるのも
不思議ちゃんでした。
 不思議ちゃんは不思議ちゃんのままにしといたほうが夢とロマンがあっていい
かなってことで、追求しませんでした。
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続く