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南サハリン(旧樺太)、北方領土には日本時代の名残が少し探せばけっこう見つかる。 サハリンの州都ユジノ・サハリンスク(旧豊原)には銀行(現美術館)、博物館(現同)、それと神社の跡が残る。 お城のような博物館の横は大泊にあった奉安殿の跡らしい。 またそれ以外の街にもあちこち残っている。郊外の街、コルサコフ(旧大泊)の銀行跡、ホルムスク(旧真岡)の製紙工場(まだかろうじて現役)。銀行跡の羊のマークがいいよね。 北へ足をのばすと橋(ポレチエ)、神社(マカロフ)が目に飛び込んできた。それにしてもこの鳥居(ウズモーリエ)、戦後ロシア人が壊そうとしても頑丈でビクともしなかったのだとか。 一方、残された日本人もいる。戦後引き上げできなかった人やその子孫だ。 スミルヌイフでロシア語で話しかけてきたあんちゃんはシャシャリクを奢ってくれたし、 ウズモーリエの岡本夫妻は、突然お宅へ押しかけたにもかかわらず、上の鳥居を案内してくれ、おまけに泊まらせていただいた。 またポロナイスクの金山秀子さんも泊めていただいた。食事は日本食と韓国食がまじったもの。味噌汁はカジカだった。写真は四世代揃い踏みの図。 日露ハーフのナターシャは若いのに日本語ぺらぺら。ユジノ・サハリンスクの大学の日本語学科で勉強しているのだとか。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 一方、国後島にも日本時代のものが残っていた。しかし人間は立ち退きさせられていて、オレ以外一人もいなかった。 古釜布(ユジノ・クリリスク)の墓地には日本人の墓が残っていた。入り口の外には日本時代からの木がすくすく大きくなっていた。 古釜布(ユジノクリリスク)と泊(ゴロブニノ)の中間ほどにある海と湖に挟まれた草むらには建物の残骸が残っていた。かつて東沸という集落があったらしい。 海をはさんで野付半島の泊には忠霊塔の跡。ここからもよく携帯が通じた。 古釜布から北に行くと日本時代の電柱が未だに使われていた。 近布内か植沖か?古釜布から10数キロ行った海岸には生活の跡が。 (西牟田靖) |
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