小説家の岡崎大五が、まだウダツの上がらない人生やっていた1993年4月、カトケンと出会い、その1週間後から、大五は、山谷のドヤ街に住み始めた。岡崎大五の作品は、彼自身の生活体験で得られたネタからもってきている点が多いところが妙にリアル感あって、売りだ。当時、「あしたのジョーの泪橋を逆に渡るんだ」といいながら、山谷の安宿に住み始めていたのを思い出す。
カトケンはその前年1992年3月にトルコに滞在して絨毯屋の商品撮影のバイトをしていて、そのときの人脈に、旅行人の蔵前仁一さんがあり、その旅行者ルートから岡崎大五を紹介してもらったのだった。そんな縁もあり、彼が、山谷に移り住むときの状況や心境もかなり身近なところで聞けている。彼のおかげで、山谷にも何度も遊びに行った。「俺はあしたのジョーになれるのか」は岡崎大五自身の求めている人生を表しているとみていいだろう。
つまり、この小説の主人公は著者岡崎自身の憧れの姿に近い、という目線で読んでみると、著者の気恥ずかしい内面が見れるよ。作品は、全編にわたって犯罪や貧困、暴力がうごめくダーク性が持ち味だが、そこに、妙に浮いた感じで、プラトニック恋愛が「ちらり」と入る。その恋愛は、口説く努力をなにもしない男が女に自動的に惚れられちゃう流れなので、作中で妙に浮いてて、ここが、恋愛にはウブな岡崎大五の少年っぽいところかもしれない。大五の気恥ずかしさここに発見せり?
もう1つの小説「北新宿多国籍同盟」でも「たまたま隣にいた美女に惚れられちゃう」は出てくる。大五さん、次作は、気恥ずかしい全編恋愛小説でもいきま
すか?
『俺はあしたのジョーになれるのか』(岡崎大五) |