ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

環八通りの77年 1



【はじめに】
 1985年1月17日、環七通りが全通した。当時の報道では着手から58年
目の 快挙と記していた。全通を純粋に歓迎するということではなく、道路行政
のまずさを 指摘する機会になった感がある。これは、単に工事期間の長さだけ
ではなく、1兆2 000億円とういう莫大な建設費についても批判している。
58年という長期間には 敗戦を含むドラスティックな経済状況の変化があっ
た。そのため当初の予算額に比べ て天文学的な費用に至った。

 ところで、前提として環七通りは58年前に着手したことになっている。これ
は、 昭和2年(1927年)8月の「大東京道路網計画」の発表を始まりとし
ている。全 長72キロの全線についてルートが確定した。その後は、大戦によ
り世の中のあらゆ る状況が変化した。環七通りの工事も滞るようになり、敗戦
により道路工事の許認可 の仕組みも変わった。仕組みは変わって、GHQによ
る監査が伴う期間においても、 やはり環七通りは必要不可欠ということで、昭
和21年(1946年)3月に全線が 「都市計画決定」区間に指定された。現
在の道路建設は、都市計画決定からが具体的 な着手にあたる。しかし、環七通
りはそれ以前の仕組みで着工していたので、くだん の58年前という記載に間
違いはない。

 本レポートは環七通りではなく、環八通りをテーマにしている。なぜ、冒頭で
環七 通りの経緯を記したのか。

 環八通りも環七通りと同じ経緯で計画されたのである。1927年の大東京道
路網 計画に含まれ、1946年に都市計画決定したのだ。環七通りはこれらの
指定に従っ て着手したが、環八通りは一手遅れたのだ。すぐに着手した環七通
りでも58年かか ったのに、一手遅れた環八通りは2004年現在で77年を
経たが全通していない。 (◆航空写真1を参照。)

 環七通りは急速に市街化が拡大するエリアをゆっくりと延伸した。遅いペース
だった が、1964年10月に開催された東京オリンピックが起爆剤になり、
一気に延伸し た。当時は需要の少なかった東京東部区間(葛飾区から江戸川区
までの区間)を除い て開通した。おおむね東京の環状道路として機能を発揮す
るようになったが、需要増 大が著しいため短期間でパンクした。さらに環状道
路が必要になった。環八通りはう ってつけである。しかし、戦前の指定黎明期
で一手遅れ、東京オリンピックの緊急整 備道路の指定からもはずれた。純粋に
確保できる予算枠だけでゆっくりと延伸している。

◆航空写真1
1947年の環七通り整備状況(大田区)
敗戦から2年後の空撮写真だが、環七通りの整備が進んでいることがわかる。第
二京 浜との交差する松原橋では、すでに立体化が実施されている。当初の計画
では4つの 角すべてにループを設置してクローバー型にする予定だった。当初
は対角する2箇所 のみにループを設置した暫定型にしたが、2004年現在ま
でフル規格化されていな い。おそらく今後も施工されないだろう。最初からフ
ル規格で施工すべきだったのか もしれない。

 交通量の多い現在では当然の意見である。確認はしていないが、松原橋 はお
そらく日本国内で初めてのインターチェンジと思われる。当時は自動車による交
通アクセスが日本に定着するか不明瞭だった。この時代に、欧米先進国に追いつ
くべ く将来を期待したかたちで先行投資をしたことだけで十分だと思う。な
お、環七通り の開通区間は松原橋以西では柿の木坂までである。駒沢、野沢か
ら上馬までは用地確 保中である。

 環七通りの進捗に比べて、環八通りはほとんど着手していない。写真の区間
(大田区 西蒲田から千鳥までの区間)には多摩堤通りが既存だが、環八通りと
は斜めに交差し ていて改築して利用することはない。当時は第二京浜の多摩川
大橋も供用されていな いため放射方向の交通需要はない。まして環八方向での
需要は全くない。この区間の 着手は世田谷区内区間などに比べて着手が遅れ、
開通もかなり遅れた。
(空撮写真は国土地理院WEBサイトから引用した。)


 今回、環八通りをテーマにしたのは、ゆっくりした延伸の結果、全通の目処が
たっ てきたからである。東京都の発表では2005年度となっているので、
2006年3 月とすれば着手決定から79年目の快挙になる。

続く