ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

東海北陸道の全通効果12



 佐藤良二氏をご存知でしょうか。
 佐藤氏はかつて国鉄バスの車掌をされていた。乗務路線は名金線で、名古屋と金沢 
を結ぶ260キロに渡る長い区間を走るバスだった。当時は東海北陸自動車道が存在 
しないので、国道156号をひたすら9時間30分から40分かけて走行した。観光 
路線のように見えるが、沿線の住民の足として数え切れない停留所に停車する乗り合 
いバスである。何でも合理化を良しとする現在では考えられないシステムである。

 さて、この路線の途中、荘川村と白川村の間には広い御母衣湖がある。この湖はダ 
ム湖で、多くの人が暮らす村落を水没させた。もちろん名金線のバスはこの村落を縫 
うように走り、山村の貴重な足だった。当時は国家的なプロジェクトに逆らう時代で 
はないので、村民は村を離れることになった。乗客だった村民と懇意になっていた佐 
藤氏は、村民の寂しい気持ちを汲んで、この村の桜を代替道路沿いに移植することを 
決めた。組織での作業ではなく、佐藤氏一個人が手弁当で着手したのだ。これだけで 
終わればささやかな美談で済まされてしまうが、佐藤氏は無謀にも名金線の路線全線 
への桜の植樹に一生を捧げることを決めた。

 桜の苗床を育てるところからすべて手作 
業である。失礼を承知で記すが、佐藤氏の家は決して裕福ではないし、一介の国鉄マ 
ンでは思うほど収入が多くない。それでも決意は固く、全線に2000本の植樹をし 
た。家族の方は暖かく見守り協力的だったが、ほかの人たちは最後まで「変わり者」 
扱いだった。実は、佐藤氏は満足できる植樹を成し遂げる前に病気で亡くなっている。

 まだ、この時点では多くの人が佐藤氏の偉業に気づかなかった。先述のように成木 
ではなく苗木の植樹なのでわかりにくかったのだ。桜が成長するとともに、少しずつ 
偉業に気づく人が現れてきた。佐藤氏が亡くなっておよそ10年後にこの事実を記し 
た文章がいろいろなメディアに登場してきた。そして、一部の道徳の教科書に記され 
たことにより子供からその親に伝わっていった。それまでは沿道の人も気づく人は少 
なかったのだ。まさに無欲の奉仕である。まあ、本人は奉仕ではなく楽しみとして遂 
行したとは思うが。

 なお、この偉業については、中村儀朋著の「さくら道 太平洋と日本海を桜で結ぼ 
う」(風媒社発行)にうまくまとめられている。

 東海北陸自動車道のルートは、佐藤良二氏のさくら道に並行している。さくら道の 
自動車専用部というかたちになっている。全通により、料金面では北陸自動車道ルー 
トの方が有利と思われるが、時間では名古屋から金沢市までは東海北陸自動車道ルー 
トの方が早い。まさにさくら道の21世紀版になる。

 道路にまつわる記念碑は、意外にも高速道路の休憩施設やインターチェンジなどに 
多く設置されている。広大なスペースで、程よく管理されているので設置しやすいの 
だろう。東海北陸自動車道全線と北陸自動車道の小矢部砺波JCTと金沢西ICの間 
の沿道に桜を植樹して、名実ともにさくら道にするという企画はおもしろいのではな 
いだろうか。さすがに一個人でできる規模ではないが、高速道路も機能性だけでな 
く、このような余裕を見せても良いフェーズに達しているような気がする。もちろ 
ん、沿線の休憩施設には佐藤良二氏をたたえる記念館や句碑を設置してほしい。
 1980年以前に開通した高速道路の中央分離帯は植樹によって対向車線の眩光防 
止をはかっていた。ところが交通量の増大により植樹の保守費用がかさむようにな 
り、鉄板が設置されるようになった。機能面だけならばこれで十分である。そして、 
1980年以前に開通した路線も順次、鉄板に置き換えられていった。設置面積が狭 
くなるので、中央分離帯の幅も狭く済むので追い越し車線右側に路肩が確保できるよ 
うになった。ある程度仕方のない進化と考えるが、交通量の少ない東海北陸自動車道 
の左外側ならば決して無理はないと思う。全線が◆画像10のような景観になれば、 
利用者にもゆとりが生まれ、規制ではなく自発的に安全走行を心がけ、その結果とし 
て事故も少なくなるような気がする。