ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

東海北陸道の全通効果1



【はじめに】
 本州の高速自動車道整備は、縦貫道においてはすべて開通済で運用フェーズに入っ 
ている。横断道もおおむね開通しているが、まだ全通していない区間も複数見られ 
る。これらのほとんどは開通後も採算が見込めず、マスコミの揶揄対象にされている。
 ところで、不採算とは必ずしも断定できない未開通路線がある。東海北陸自動車道 
である。この路線は、路線名の通り、東海地区と北陸地区を短絡する路線で、198 
6年3月5日の部分開通(岐阜各務原ICと美濃ICの間)から順次延長を延ばし、 
現在(2003年9月)は25キロ(飛騨清見JCTと白川郷ICの間)を残すのみ 
に至っている。(◆表1)

◆表1
北陸自動車道と東海北陸自動車道の開通経緯一覧。
薄緑は北陸自動車道の米原JCTと朝日ICの間の開通区間で、濃緑は朝日ICと新 
潟中央JCTの間である。北陸自動車道において東海北陸自動車道との競合区間を米 
原JCTと朝日ICの間と想定して色分けしている。
 東海地区と北陸地区の連絡は、名神高速道路の米原JCT(ジャンクション)で接 
続する北陸自動車道が担ってきた。北陸自動車道は、1972年の部分開通(小松I 
Cと金沢西ICの間)から順次延長し、東海北陸自動車道との競合区間である富山県 
朝日ICまでは1983年12月14日につながった。

 つまり、東海北陸自動車道の部分開通は、北陸自動車道が開通した後に開始したの 
である。北陸自動車道は、東海地区だけでなく関西地区(および関西以西)と北陸地 
区を連絡する役割があり、高速道路黎明期にはより効果的な路線を優先させていたの 
で納得できる建設順位である。

 北陸自動車道は日本海側の幹線(縦貫道)にあたるが、交通量は東名高速道路や名 
神高速道路など太平洋側の幹線に比べるとかなり少ない。区間により差異が大きいの 
で一概には言えないが、富山IC付近の交通量は、静岡IC付近の4分の1程度であ 
る。この交通量は設計交通量を下回るので、北陸自動車道には渋滞多発区間はない。
 
 事故や異常気象(豪雪による交通規制など)、特定の季節における観光需要の集中 
(海水浴シーズンの週末午前の敦賀IC出口など)による渋滞は発生するが、何らか 
の渋滞対策を施す要因にはならない。部分開通から30年以上を経ているが、おおむ 
ね開通当初の構造のままである。(富山西ICの追加、金沢西ICのランプ追加な 
ど、少しは改造されているが、いずれも本線の慢性的渋滞を解消させるためではない。)
 ほとんど開通当初の面影のない東名高速道路や名神高速道路が特殊なのかもしれな 
いが、北陸自動車道は予定通りの供給を施したとは言える。

 北陸自動車道は、需要面でも少なすぎず、多すぎず、安定した走行が確保できる。 
採算面では黒字である。東海北陸自動車道は北陸自動車道の機能を補間するのではな 
く、北陸自動車道ルートではやや大回りになる東海地区と北陸地区を短絡する新たな 
目的で建設されるのである。
 ところで、東海北陸自動車道の計画は古い。(◆表2)

◆表2
東海北陸自動車道の基本計画、整備計画、施工命令時期一覧。
 1973年11月1日までに全区間の基本計画を策定している。整備計画は、一宮 
JCTと白鳥JCTの間は順調に1972年6月20日に策定されたが、ほかの路線 
は9年から16年放置された。一般的に整備計画と同時に施工命令されるが、山岳区 
間の白鳥JCTと福光ICの間はさらに2年から4年放置された。

 某政治家やマスコミが、「関越自動車道よりも計画が古いのに東海北陸自動車道は 
いまだに全通していない。建設を促進すべきである。」と、扇動していたが、正確に 
は間違っている。関越自動車道の基本計画は1972年6月30日までに全線が策定 
され、整備計画は1972年8月3日、施工命令は1973年3月9日である。(東 
海北陸自動車道の全線における基本計画策定は1973年11月1日、整備計画は1 
989年3月29日、施工命令は1993年11月19日である。)いずれも全区間 
を対象にすれば、関越自動車道の方が早い。新潟県の有力政治家を批判するために誇 
張したのだろう。それにしても、基本計画から全通予定まで34年を経るのは本州中 
央部の高速道路では稀有な例である。

続く