中国自動車道は、急務とされた日本縦貫高速道路の要として1983年3月に華々
しく全通した。ところで、高速道路のルート設定において、既存の海岸沿いの都市部
を連絡していくのではなく、国土の中央部を通過するルートを主軸にして海岸沿いに
は枝線を設けるという考えがあった。あたかも魚の骨のようなかたちである。これ
は、戦(世界大戦)前に海岸地域が攻撃されたケースを想定したのが元になってい
る。明治以前の街道でも戦(内戦)時に容易に攻撃されないよう、また領地から容易
に脱走できないよう敢えて大河に橋を架けなかった。このためほとんどの街道筋には
山岳部へ迂回する裏街道が設けられた。いずれにしても最も需要の大きい最短ルート
を避けたのは、戦略上の都合である。高速道路にような大規模な国家プロジェクトは
政治力に大いに影響される。戦(第二次世界大戦)後においても、戦前の思考回路は
そのまま踏襲されて1950年代の高速道路ルート設定時にも幾ばくかの影響を及ぼ
した。
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広島北JCT(ジャンクション)
中国自動車道と広島自動車道の
分岐部
(「高速道路と自動車」
1983年4月号から引用)
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東北地方は中央軸が既存の都市群になっているので、その考えのままルートが決ま
った。問題は最も交通需要の大きい太平洋ベルト地帯である。ちょうど国土の中央軸
にルートが重複する名神高速道路は早期にルートが決まったが、東京と名古屋、大阪
と下関は既存都市群に直結しないルートでは納得できる時代ではなくなっていた。経
緯の詳細は省略するが、結局、東京と名古屋は海岸線を通過する東名高速道路の全通
を目指して先行着工し、中央自動車道は、まず東京から富士吉田(河口湖)まで着工
した。これは、初期のころに想定していた中央自動車道は、甲府からまっすぐ飯田ま
で南アルプスを9キロと8キロのトンネルで貫通する難工事の予想されるルート設定
だったからである。1日でも早く東京と名古屋を結ぶミッションには、南アルプス貫
通は最大級の障害になった。このあたりの経緯は、鉄道の東海道線と中央線の建設経
緯とも似ている。大阪と下関は、中央ルートでも山陽および山陰の既存都市群へ50
キロ程度で連絡できるし、地形もゆるやかで技術的な問題点が少なかったので、中央
ルート(中国自動車道)の先行着工に決まった。この区間は、東海道ほど交通量が多
くないと予想されたため山陽自動車道の部分着工は見送られた。(山陽自動車道は、
中国自動車道の全通1年前に部分開通し、1997年12月に全通した。)
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落合JCT
中国自動車道と米子自動車道
の分岐部
(「高速道路と自動車」
1997年3月号から引用)
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因みに、名神高速道路の正式名称は「中央自動車道西宮線」である。つまり、東京
(高井戸)から通称の中央自動車道を経て、小牧JCTから西宮までの名神高速道路
を含めて中央自動車道ということ。東名高速道路の正式名称は「第一東海自動車道」
で、東名、名神として道路は連続しているが、本当は中央自動車道の海岸回り補助線
の位置付けである。なお、「第一」と付けられたのは「第二東海自動車道」である第
二東名高速道路が作られることになったからである。まあ、こんなことは山手線の正
式な区間が品川と田端の西側半分だけで環状線にはなっていなくて、東側は東北線や
東海道線であるということくらい無意味なことですが...
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北房JCT
中国自動車道と岡山自動車道
の分岐部
(「高速道路と自動車」
1994年2月号から引用)
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