戦争・軍事 > 戦争と音楽の深い関係|戦史研究家のロシア名曲鑑

歌に見るロシアの都市と戦争−モスクワとロストフ・ナ・ダヌー

戦史研究家のロシア名曲鑑 5
(戦史研究家&ロシア歌曲歌手・ミハイル・フルンゼ

セヴァストーポリは返ってきた

 第二次世界大戦の戦記に興味をもつものは、ヨーロッパ諸国や北アフリカ、ロ
シアなどの地名をよく知っている。北アフリカなんか、エジプトの首都カイロな
んてもんじゃなく、アレキサンドリア、さらにはロンメル将軍率いるドイツ・イ
タリア軍とモンゴメリー将軍指揮下のイギリス第8軍が1942年に雌雄を決したエ
ル・アラメイン、さらにイタリア軍が要塞都市にしたが両陣営で何度も奪い合っ
たリビアの港町トブルグなど、およそ普通に学校の地理教育を受けただけでは覚
えようもない地名を知っているのが、戦史マニアというものだ。

 独ソ両軍がしのぎを削った東部戦線、ロシアの地名もまたしかり。ドイツの戦
記作家パウル・カレルの名著『バルバロッサ』や『焦土作戦』なんて読んだ向き
には、ヴェリキエ・ルーキとかカリーニン、ヴャジマ、ボロネジ、果てはシン
フェロポリとかドニェプル河畔の小さな村リュテジなどなど、普通のロシア通が
「え!?」と絶句するような地名も目新しいものではないだろう。数百というロ
シアやウクライナの都市や村の名は、それぞれドイツ軍将兵とソ連軍将兵、住民
の血と涙がしみこみ、歴史に刻まれることになったのだ。

 ロシアはソ連時代から、独ソ戦で攻防争奪の地となった都市に「英雄都市」
(ГОРОД  ГЕРОЙ)の称号(呼び名の勲章みたいなものだね)を与え
ている。100万人以上の餓死者を出しながら900日の包囲攻防に耐え抜いたレニン
グラード市(現サンクト・ペテルスブルク市)、1941年秋に70万人以上のソ連軍
が包囲下に置かれて壊滅したウクライナの首都キエフ、首都に続く幹線路上の要
衝として軍民が執拗な抵抗をドイツ軍にこころみたスモレンスク市、ソ連軍が一
歩もひかずに死守しながら最後には枢軸軍30万人を逆包囲して殲滅し戦争全体の
転換点をつくったとされるスターリングラード市(現ボルゴグラード市)など、
「英雄都市」の称号を与えられた街はかなりある。これらの都市には、それぞれ
戦争の中で果たした役割と功績を後世に残す歌が作られ、唄い継がれている。

 でも、やっぱり「英雄都市」の筆頭にあげられるのは、首都モスクワか。開戦
からわずか4ヶ月でドイツ軍はすぐ門前に迫っていて、一時パニックに陥ったも
のの兵力に劣るソ連軍や志願者による民兵たちは折からの悪天候を利用してがっ
ちり守りを固め、11月には記録的な寒さの中、ドイツ軍をモスクワ中心部からわ
ずか20数キロのところで食い止めた。

 感動的なエピソードはたくさんある。しかし、一番印象的なのは、敵が迫った
危機的状況下で前線部隊や民兵をかき集めて赤の広場で挙行された11月7日の社
会主義革命24周年軍事パレードだ。
(参考映像=映画「モスクワ攻防戦」1985年のパレード・シーン)

 門前のドイツ軍の鼻をあかすようにまんまとやり遂げられたソ連軍のパレード
は、ラジオでヨーロッパ各地に中継されドイツ軍占領下にあった諸国民を驚か
せ、励ました。『アンネの日記』のアンネ・フランクもこのパレードにふれ、隠
れ家を出られる日に思いをはせていた。

 モスクワ市民の多くは志願して労働者義勇大隊で銃をとり、装備の優れたドイ
ツ軍に抵抗しながらバタバタと死んでいった。もちろん、ソ連各地、中央アジア
からシベリアまで、生まれて初めて辺境から出てきたような地方出身の兵士たち
も「死してもモスクワを渡すな!」を合言葉に、ドイツ戦車に爆弾を抱えて飛び
込んでいったのだ。

 「英雄都市」の称号は、兵士や市民の血の重みでかちえたものだ。さまざまな
人生がそこで終焉を迎え、思いがこもっている。その中で、守り抜こうとする都
市そのものへの愛を唄った歌曲が生まれるのは、ロシアならではだ。いまでも
「モスクワ市歌」として制定されている曲に「私のモスクワ」(МОЯ  МОСКВА)
がある。1948年に作られた(1942年に原曲ができていたという説もある)。
(参考映像=ウラジミール・トローシン歌唱「私のモスクワ」、ソ連時代)

♪♪
私は闇の中をひたすら歩いた  壕舎やタイガの中の塹壕で過ごした
生きたまま 二度埋められ 悲しい別れも知った
でも いつも心の中で 誇りをもって 思い出し 繰り返した言葉は
“愛するわが街 輝けるモスクワよ”

私は忘れない あの秋の厳しさ 銃剣が林立し 戦車が街路を往く
わが街の門前で28人の英雄は ドイツ戦車に刺し違えた
おまえの息子たちは 決して おまえを敵にわたさない
“愛するわが街 輝けるモスクワよ”
♪♪

 歌詞で唄われている「28人の英雄」とは、中央アジアからやってきた第8親衛
狙撃師団所属のアジア系ソ連兵たちのことだ。モスクワ近郊のボロコラムスク戦
線でクロチコフ政治委員に率いられた兵士たちは、わずかな対戦車火器と手榴弾
などで16両のドイツ戦車と対決し、ほとんど全滅しながらこれを通すことはな
かった。この時、クロチコフ政治委員が叫んだ言葉が、ソ連国民の心をうち奮い
立たせたのだ。

「ロシアは広い。だが、もう退がるところはどこにもないぞ。後ろはモスクワだ!」

 ロシア人にとって、歌とは墓であり記念碑でもあるのだ。「私のモスクワ」が
唄い継がれるかぎり、ボロコラムスクで死んでいったアジア系兵士を含む命を落
とした将兵や市民は世代が代わっても追憶されていき、心のバトンとして歴史を
くぐっていく。

 筆者にとって、もうひとつ、印象的な「英雄都市」賛歌がある。「カチュー
シャ」作者のマトヴェイ・ブランテルが作った「ロストフの町」(ГОРОД 
РОСТОВ)だ。これが戦争の歌なのか?‥というくらい、軽やかで美しいメロディ
だ。筆者はまだロシア語がよくわからない高校生の頃にこの曲を聴き、すぐに好
きになった。
(参考映像=アレクサンドロフ記念ソ連陸軍アンサンブル、ソリスト・ブクレー
エフ「ロストフの町」、ソ連時代)


♪♪
僕らはこの町に住み この町で友情を育み この町をお喋りしながら歩いた
ギターの爪弾きに合わせながら 女の子と唄い愛し合ったのだ

 ロストフの町、ドン川のロストフよ! 青い星の大空よ
 公園通り かえでのベンチ ロストフの町、ドン川のロストフよ!

苦しい戦争が始まって 真っ赤な炎が燃え上がり
僕らは鉛の雨を味わった そして、僕らの町を去った
愛する明るい僕らの町の姿を 心に抱いて去って行った...

 ロストフの町、ドン川のロストフよ! 青い星の大空よ
 公園通り かえでのベンチ ロストフの町、ドン川のロストフよ!

♪♪
息子が帰ってきた!


 ロシアの代表的な川のひとつ、ドン川の河口部でアゾフ海に面する港町ロスト
フ(「ドン川のロストフ」という意味で、ロストフ・ナ・ダヌーと呼ぶのが正式
だ)は、独ソ戦での激戦地だった。1941年11月末には、迫っていたドイツ
軍に向けて現地ソ連軍は犠牲をかえりみない捨て身の反撃を実施し、屍の山を氷
結したドン川に築いて戦線を西に押し戻した。

 ところが、1942年7月24日には、「青(ブラウう)作戦」発動でスターリ
ングラード南翼及びコーカサス方面をめざして進撃するドイツ第17軍によって陥
落させられ、1943年2月14日に奪回される。「ロストフの町」は、この解放
の喜びをうけて、作られたのだ。歌詞には、美しい港町への愛情が込められている。

 しかし、激しい市街戦が繰り広げられたため、歌で港町としてのロマンチック
な風情を唄われているロストフの美しい町並みはボロボロに破壊されてしまっ
た。しかし、奪回された町は、市民たちの手でコツコツと復興がはかられ、現在
は100万人以上の人口を擁する南ロシア有数の都市となった(1939年、戦
争前の時点での人口は50万人)。

 最近、ロストフ市は「英雄都市」の称号の他、2008年のロシア連邦共和国政府
決定で「栄誉ある軍の町」(ГОРОД ВОЙСК СЛАВЫЙ)というサブネームが与えら
れた。そして、「ロストフの町」は、市歌として唄い継がれている。

続く