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大手海外メディアの『男たちの大和/YAMATO』報道2

(報告:常岡千恵子)



 お次は、英国の有名軍事ジャーナリストの批評の要約。

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『デイリー・メール』(英)        2005年12月30日付
     −この憎しみの船;マックス・ヘイスティングス筆


 今月、東京に戦争が再来した。  日本人は、目を見開いて、目前に展開する史上最悪の海戦のひとつを観 た。  もちろん、これは映画館での出来事だが、私のような英国からの来訪者 にとっては、ただごとではなかった。  この新作映画『男たちの大和』のプレミア上映が、その戦艦の名の由来 とされたこの国の中心で行われたのだ。  2005年のクリスマス、日本人は、4000人以上の乗員が命を落と した60年前の自殺任務に誘われる。  映画については、後述することにする。  最初に、この映画が公開される脈絡について考えてほしい。  日本と、その強力な隣国である中国の関係が、最悪の状態に落ち込んで いる時期なのだ。その主たる原因は、両国の第二次世界大戦に対する認識 における苦い対立である。  英国人があの戦争にとりつかれていると思う人は、私が先月そうしたよ うに、中国へ行ってみるといい。  かの地では、"中国における日本の侵略の記念"とか、"731部隊によ る日本の残虐行為記録センター"とか、一連の容赦ない名前を冠した博物 館が新たにオープンしている。  現在、一部の中国人学識者は、日本の占領期の中国人死亡者数を、従来 から認められている1千5百万人ではなく、5千万人だと主張している。  ある中国人歴史家は、強制労働による死亡者は、各省50万人に及ぶと 確信し、「日本人は今でも深く憎まれている。ヨーロッパ人には、われわ れの戦争体験はわからない。なぜ日本人は、ドイツに学び、1945年か らドイツ政府が行ってきたことを行い、世界に向かって堂々と『われわれ は、大きな、恐るべき過ちを犯した』と言えないのだろうか?」と語った。  中国政府は、今日のアジアのパワーポリティクスの節目節目で、日本の 戦争責任と謝罪不足の問題を持ち出す。  今日の中国人のほぼ全員が、日本の首相が毎年靖国神社を参拝し、自分 たちに対する残虐行為で連合国に絞首刑に処せられた人物を含む戦没者 に、象徴的に敬意を払っていることを知っている。  先月インタビューした中国人30人の、ほぼ全員が日本軍に家族を殺害 されていた。  大半の中国人が毛沢東時代の恐怖について気まずい思いを抱いている ときに、中国近代史において彼らが団結できる時代は、日本に迫害され、 占領された時代である。  中国人は、日本を憎んでいるふりをしているのではない。 中国政府のプロパガンダに煽動されているとしても、この感情は本物だ。  アジアの経済大国の二国間の関係において、このことが暗示するところ は大きい。  以上が、東京での『男たちの大和』公開の背景である。  この作品は、異様で、実に深刻にとんでもない映画だが、この戦時の出 来事は現代日本人を魅了しているらしい。  西日本の尾道にこの映画製作のために建造された、7万2千トンの戦艦 の実物大レプリカには、すでに40万人近くの日本人が訪れている。  映画は、日本海軍の規律についても、遠慮なく詳しく描写する。  英国海軍は、水兵の鞭打ちを19世紀にやめているが、1945年の日 本の水兵は、野球のバットのような棒で叩かれた。  しばしば、上級者の水兵が罰を執行せずに、水兵仲間同士での打ち合い を強要された。  激しく打ち込まない者には、災いが降りかかった。  そして戦闘シーンになると、映画は馬鹿げて見え始める。  米国に気兼ねしているのは疑いなく、画面は攻撃者が米国人であること を視覚的に示さない。 彼らが、海岸の一般人を機関銃攻撃し始めても、である。  大和の甲板上の勇敢な砲手たちに迫る、正体不明の飛行機と顔のないパ イロットの大編成部隊が登場するだけだ。  スクリーンでは、砲手たちは、米国海軍が所有していた以上の数の飛行 機を打ち落とす。  現実には、米国の空母艦載機パイロットたちは、日本の巨艦を沈めるの に、飛行機10機とクルー12人のみの命を犠牲した。  そして、騒音が、耳をつんざくようにうるさい。  誰もが激しく怒鳴りあい、セットは血と砲弾ケースに浸かる。 海上でも、海岸でも、キャストほぼ全員が驚異的にすすり泣く。 端的にいえば、これは、英米映画界が1950年代に作り続け、40年 前に卒業した、驚くほどお涙頂戴の戦争映画の類である。  今、日本の映画製作者たちが、これに追いついた。  『男たちの大和』は、好戦映画とはいえない。  だが、この映画が意味するもの、そして中国人の感情をさらに煽るだろ うことは、最近のドイツの第二次世界大戦の映画にも見られるような、日 本の水兵と国民を被害者と捉えていることにある。  日本が帝国主義の野望の下に、何年もアジアに苦痛と残虐行為と死を与 え、すべてを始めたのだという示唆すらない。  この映画は、勇敢で栄えある高貴な日本人が、善良な若い侍のように、 敵の手中で殉教を受け入れたという物語である。  この作品を見ていると、オスカー・ワイルドがディケンズの『Little Nell』を読んで、失笑しないようにするためには心を石にしなければなら ない、と感じた状況がよくわかる。  「第二次世界海戦の60年後に、日本やほかの国があの戦争をどう描こ うと、問題になるのか?」という者もいるかもしれない。  だが、現代のアジアにおいて、これがいかに重要にみえるかには、驚か される。  われわれ英国人は、戦争捕虜の扱いについて、いまだに日本人に対して いくらかの苦々しさを抱いている。  これは、今日、日本と交渉や貿易を行なおうとするわれわれの意志を左 右するほどの、多大な影響は与えない。    しかしながら、アジアにおいては、状況が異なる。  戦争責任の問題は、日本と中国だけでなく、もうひとつの恐るべき経済 大国、韓国との関係も、毒している。  それでも、今、日本人が過去の過ちを謙虚に受け止め、引き下がる気配 はない。  日本人作家で歴史家の半藤一利氏は、「この国には、好戦的なナショナ リストは全く支持していないが、中国や韓国からの終わりのない批判に耐 えることに、まだ反感を抱いている人がたくさんいます。彼らは、多くの 日本人が自分たちの問題だと捉えていることに、これらの国が口出しする ことを嫌っているのです。大半の人が、日本はあの戦争について謝罪した、 数年前、われわれの首相が最高に大げさな謝罪をしたと思っています。私 自身、われわれは十分に謝罪したと考えています」と述べた。  だが、私が出会った中国人歴史家のワン・ホンビンは、この見解にまっ たく同意しない。  彼は、「われわれは日本の支配下で、ものすごく苦しんだのです。今日 の中国人が、これらの行為者を追悼する神社に指導者が参拝している国に、 敬意を払うことはいうまでもなく、そんな国とビジネスができるでしょう か?」と語った。  靖国神社には、沖縄戦の戦没者から、南京の中国人数千人の虐殺者まで、 彼らが「大東亜戦争」と呼ぶ戦争で死んだ日本人の氏名が、厳かに記録さ れている。    日曜日には、戦時の軍服を着て、「次回はわれわれが制服する!」とい うような狂ったスローガンを握った、過激なナショナリストたちの集合場 所ともなる。  こうした変人たちは多くはないし、どこの国にもこういう人々がいるの で、それほど深刻に受け止めるべきではない。  しかし、今日の日本政府が、大和の乗員のみならず、中国や韓国、マレ ーシアで言語に絶するようなことを行った日本の司令官たちを毎年参拝 するという行為によって、自国民の機嫌を取り、アジアの国々の多くを怒 らせることを務めと感じているのは、尋常ではないように思える。  日本で出会った退役軍人たちは、驚くほど好感の持てる人たちだった。  だが、われわれ西洋人は、大半の日本人が今なお敬服するカミカゼ文化 を、決して受け入れることはできないだろう。  そして、アジアの人々は、今日、米国人やヨーロッパ人よりも、日本の 過去の行為を許す気がずっとなさそうである。  この歴史理解のギャップがもたらす、未来のアジアの安定への脅威は、 誇張することが難しいほど大きい。  そのギャップは、『男たちの大和』のような自己憐憫の映画では、少し も解消されない。 。。。。。。。。。。。。。  さすがは国際軍事ジャーナリスト、戦争、つまり軍事力の行使は外交手 段のひとつにすぎないことを踏まえ、現在の日中情勢を背景に、中国での 取材も交えて、この映画を読み解いている。    監督の佐藤純弥氏は、1982年に日中戦争の悲劇を描いた日中合作 『未完の対局』を監督した同一人物とは信じがたいほど、日本人ばかりに 目を向けている印象がする。  佐藤氏本人は、『週刊金曜日』2006年1月6日号で、「僕は日中戦争 に関しては『未完の対局』である程度決着をつけたつもりなのですが」と、 片付けているが、芸術家としての成長を目指すなら、あの作品を撮った監 督だからこそ、あの作品を踏み台にして、もっと深い洞察力を伴う太平洋 戦争を描けたはずだ。  もっとも、最近の国内世相を見ていると、昔はリベラルだったが今は硬 直して視野狭窄に陥っている人も多々おり(米国のネオコンもそうだし)、 佐藤氏個人の変化が、何よりも今の日本の映画界やメディアのあり方を体 現しているのであろう。  また、米国にも気を遣って、米国人を登場させなかったのではないかと いう指摘も、実に鋭い。  よく考えてみると、この作品は、戦争というものは、外国との関係から 発生するものであることを、最初から度外視しているのではないか。  "太平洋戦争の総括のきっかけ"を目指した監督が、意識的に外国を除 外したのだったら、戦争というものに対する認識が甘いし、さらに無意識 のうちに外国を無視していたのであれば、海外のことなどハナから眼中に ないことになるから、その映画が、"国際社会への進出"が叫ばれている 今の日本で大ヒットしているのは、なおさら恐ろしい気がする。  ちなみに、日本国民がこの情緒的な映画に涙しているちょうどこの時期 に、中国では、米国人文化人類学者ルース・ベネディクトの日本研究の 古典『菊と刀』がベストセラーになっているという。  ひたすら先祖の姿に涙する国民と、学問的に隣国を理解しようとする国 民、この好対照の現象は、両国の未来を示唆しているのかもしれない。  涙は思考を停止させるものである。  ところで、第二次世界大戦をテーマにした邦画は、外国人に理解されな いものが多く、あれほど世界で賞賛された黒澤明監督でさえ、1991年 の作品『八月の狂詩曲』に対し、在京の外国人特派員から被害者意識ばか りだという痛烈な批判が投げかけられた。  さて、ヘイスティング氏は、軍事的な指摘も行っているが、やはり娯楽 作品とはいえ、戦闘シーンはある程度史実に則したものにしないと、観る 人が観れば、ボロが出てしまうようだ。  帝国海軍は、もともと英国海軍を手本に創設されたが、第二次世界大戦 までには、英国海軍から学ぶものがないと奢っていたようで、英国海軍が とっくの昔に廃止した体罰を、後生大事に守り続けていたことになる。  目先の実利ばかりを追いかけ、人道的な感覚や人権意識に疎い日本人は、 世界の潮流の変化に大きく遅れを取り、東京裁判で痛い目を見たのは、周 知の事実である。  ご参考までに、最近の英国海軍についていえば、2000年にゲイの隊 員の採用を決定した。  それ以前は、英軍はゲイを禁止していたが、1999年に欧州裁判所で、 人権法に抵触するという判決が出され、翌年にゲイ採用を解禁。 2005年には英国海軍は、ゲイの団体に積極的に働きかけてリクルー トする方針に変更し、一躍ゲイ先進海軍の座に輝いた。  さすがは、伝統と革新の国、英国。 ちなみに、米国海軍は今でもゲイはご法度、海上自衛隊はどうなのか な?  英国海軍は、2002年の海上自衛隊創設50周年記念国際観艦式に招 かれたが、途中で座礁して不参加だったらしい。  しかしながら、2005年8月にカムチャツカ半島沖で発生したロシア の潜水艇の事故では、見事に乗員を救助した。 このときロシアは、英国海軍、米国海軍、海上自衛隊に救助要請を出し たが、日本より遠方からやってきた英国海軍が一番乗りで大活躍、彼らの 独壇場となった。  さすがは国際救助隊『サンダーバード』の祖国の海軍、国際観艦式では オトボケだったが、人命救助はお手のもの。  人間、そうそう、常に緊張状態を持続できるものではない。  ふだんはちょっとたるんでいても、イザというときに力を発揮するのが、 英国人の流儀なのだろう。  その点、日本人は"たるんどる"ことを嫌い、いつも緊張しがちだが、 イザというときには疲れて力が出ないというマイナス効果もあるかも。  大和の特攻作戦も、考える余裕を失った軍上層部によるヤケクソだが、 やはり理性的にものを考えられるように余裕を持つことが大切なのでは ないか。  逆に、ふだんチンタラしている外国人を"たるんどる"と決めつけるの は、独断的な油断である。  "休む"ということも立派な戦術であり、十分な休養あってこそ、持続 力が生まれてくるというものだ。  これも、あの戦争からの教訓だと思う。  この映画評も指摘しているように、日本の映像作品は、主人公に密着し すぎて、全体を客観的に描く余裕がないことが多い。  たとえば、テレビの刑事ドラマでも、日本のものはクライマックスで、 主人公が顔を歪めて"イッショーケンメー"怒鳴り続けるシーンが多いが、 欧米の作品は、主人公がジョークや皮肉を言って息抜きをしたり、あるい は、ちょっと主人公をおちょくった描写を挿入するなど、距離を置いてい る。  米国のスティーブン・スピルバーグ監督などは、『1941』で真珠湾 攻撃をしっちゃかめっちゃかの娯楽コメディに仕立て上げた。  米国が被害者であるこの事件を、ここまで突き放すというその発想、ま たそれに拍手を送る米国社会は、やはり余裕があるのかもしれない。

続く