東長崎外(国内)北海道

小樽運河(小樽散歩5)

(写真/文:神博行)



小樽運河


 小樽の観光名所と言えば「小樽運河」だ。
小樽は国際的貿易港として繁栄した歴史がある。
小樽運河の倉庫群


運河沿いには石造の倉庫群が建ち並ぶ、現在は道路沿いになっているが、これは運河
を埋め立てたせいだ。
運河を埋め立て道路にするという計画が立ち上がり、運河を保存しようとする市民運
動と激しく対立した歴史がある。
「ふれあいの泉」今はふれあっていないのか水は無い。そんな時代は私は知らな
い、昔テレビのドキュメンタリーで見た程度でしか知らない。
しかし、とても記憶に残っていることがある。
和田式耐寒共用栓

強硬に運河の埋め立てを推進する市側の言い分が、そのドキュメンタリーで当時のイ
ンタビューが流されたのだ。
とても強圧的で権力者の言いそうなことだなと感じた。
小樽の水道創設は大正3年9月。しかし、運河を部分的とはいえ保存することとな
り、現在の観光名所となっていることに対し当時の埋め立て推進派の人物がインタ
ビューに答えていた。
「ライオンの水道」とも呼ばれる


「運河を保存することを決めたのは私です」と誇らしげに語っていた、昔の映像は幾
分か若いが間違いなく埋め立てを強硬に主張していた人物と同一人物であった。
あれほど運河保存には否定的であった人物とは思えないくらい、運河保存は私の力と
言わんばかりの態度には逆に「凄い」と思った、どっちに転んでもこの人なら手柄は
自分の力、失敗は他人の責任にしてしまうのだろう。
運河の遊歩道の壁画


運河の保存運動があった頃の運河は汚く、現在のような美しい運河ではなかったこと
から保存の価値を見いだせなかったのかも知れないが、今は世界中から観光客が訪れ
る観光名所となっている。
江戸時代に弁財船で航路が開始された

小樽にとって運河とはいろんな意味で奥深い歴史が刻まれているのだ。
かつて米空母が小樽に来港したことが数度あった。
初めての来港は地元のニュースで大々的に報じられ、物凄い観光客が小樽に訪れた。
壁画は日本海航路の歴史と小樽の歴史が描かれている


2度目は観光に莫大な影響があると思ったか、かなり空母見学に協力的であったが、
護衛の巡洋艦は小樽には入れないと強硬に反対した。
3度目はテロのこともあって警戒厳重で、しかも事前に許可をとった者でないと空母
見学はできないシステムとニュースでも取り上げられなかったせいか、観光客は余り
いなかった。
見学者用にゲートや並ぶための柵まで用意したのに、並ぶ者がいなかったのは寂しい
光景であった。
また、外国の軍艦がたまに訪れることがあるが、いつも反対して騒ぐので一般公開も
中止になることがあり寂しい限りである。

ちなみに北朝鮮やロシア船は受け入れている、北朝鮮の船からはゴミが出ないという
話も聞いた。
友好国の軍艦は敵で、共産国の船は狼藉を働く船員がいてもお構いなしなのだろう
か。
小樽の大衆浴場でロシア船員の余りにも酷いマナー違反と傍若無人ぶりに、地元の銭
湯では「外国人お断り」としたのだが、日本に帰化した白人が「人種差別」だと訴訟
を起こした。
白人が人種差別だと怒るのはちゃんちゃら可笑しい話だが、有色人種から差別される
のは我慢ならなかったのだろう。
小樽とはそんな国際的な街でもある、「蟹工船」の小林多喜二の故郷でもある小樽は
北海道の中でも歴史のある貴重な街だ。
古い物を破壊し、新しい物を建設する方が大事だと思う人は多いようだが、古い物も
残さなければ後世の人々に残す財産にもなるし観光地にもなれないだろう、町興しを
しようとも難しい。
産業で繁栄できれば良いが、それが簡単にゆけば苦労はない。
小樽のような歴史のある街でも日本の歴史から見れば歴史は無い方なのかも知れな
い。
明治以前の建築物は北海道では余り残っていない。
あっても一部の地方で、内陸は開拓の歴史から始まっているので明治以降からの歴史
が多い。
しかし開拓時代の物でさえ余り目にすることはないのが北海道である。
小樽運河が今保存されているのは、運河を保存するために立ち上がった市民運動の力
なくしては語れない。
後世の人々が、保存された小樽運河を見て小樽の歴史を考え、そして保存した運河の
価値の評価をすればいいのである。
ひょっとすると、百年もしたらまたいろんな考えを持つ権力者が現れるかも知れない
のだ。
小樽運河を眺めていろんな思いに駆られた。