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歩兵二五聯隊の遺品

(写真/文:戦史研究家:神博行)



歩兵25聯隊軍旗写真

 たまには戦史研究家である部分も出さねばなるまい。
歩兵25聯隊は札幌月寒で編成され、月寒にあったが終戦時は樺太にあって樺太防衛
のためソ連軍との激しい戦闘の中、軍旗を奉燃した。
歩兵25聯隊歴史


自衛の戦闘であったが終戦後も樺太はソ連軍の攻撃に晒され、僅か1個師団が防衛に
あたったが日本領土であった南樺太には多くの日本人がおり、犠牲者も少なくなかっ
た。
そのため戦闘を中止してソ連軍に降伏する道をつけるため軍使を送ったがソ連軍には
聞き入られず射殺されてしまった。
日露戦争で戦死した歩兵25聯隊将兵の遺影


8月9日にソ連軍の侵攻が開始された時、樺太に置かれた歩兵25聯隊の歴史的遺産
を資料館に展示していたが、このままでは失われると急遽梱包し北海道へ送った。
日露戦争で203高地を占領した25聯隊の武勲を物語る品々、乃木大将の感状、聯
隊の歴史、将校団の寄せ書き、遺影、血染めの軍服、渡辺少将の軍服など満州事変、
ノモンハン事件など連隊の戦歴を物語る品々はソ連軍の手に渡す訳にはいかない。
軍旗l履歴書


しかし戦後長らく行方不明となっていた。
札幌市内の某所から昭和55年発見されるまで、歩兵25聯隊「歴史記念館」にあっ
た極めて貴重な25聯隊の戦歴の品々はタイムカプセルのように眠っていた。
初代聯隊長渡辺水哉少将の軍服



札幌月寒から樺太に移駐し、樺太に聯隊の歴史記念館を作り展示していた。
8月9日のソ連軍の侵攻に、なんとしても貴重な品は北海道に送り返さねばと、梱包
し特に貴重と思われる品を北海道に送った。

初代聯隊長渡辺水哉大佐(後の少将)は教導団から下士官となり、神風連の乱、西南
戦争の時は下士官として活躍し、少尉試補となり明治11年歩兵少尉に任官した。
叩き上げの将校として明治27年に北海道屯田兵科となり少佐となった。
日清戦争の功で歩兵中佐となり台湾守備第8大隊長となった。
明治32年歩兵25聯隊の編成とともに初代聯隊長に補せられ明治35年には大佐に
昇進した。
日露戦争時着用の渡辺大佐の野戦服



日露戦争には聯隊を率いて旅順要塞攻略戦に白襷隊の副隊長として参加、白襷隊隊長
中村少将の負傷後指揮を執り活躍した。
203高地を占領に殊勲をたて、乃木司令官から感状を授与された。
しかし戦闘で耳が遠くなるほどの負傷し生涯後遺症に悩まされた。
翌年奉天の会戦にも参加、日露戦争の功により功3級金鵄勲章を叙勲、陸軍少将に進
み歩兵27旅団長に補された。
乃木第三軍司令官から授与された感状



渡辺少将は韓国派遣司令官の後に後備役へとなった。
陸軍士官学校や陸軍大学校も出ていない陸軍少将は武勲の誉れ高く、聯隊では渡辺少
将から寄贈された軍服と野戦服、軍刀(これは樺太に残し現存していない)、乃木大
将からの感状、203高地の額等を大切に保管していた。
軍旗損傷誌 聯隊旗手が手書きで損傷図を描いている



また樺太で奉燃した軍旗にとともにあった「軍旗損傷誌」もこの時に北海道へ返され
た。
軍旗損傷誌には歴代聯隊旗手の名前が書かれてある。
陸軍中将となり有末機関の機関長として知られた有末精三、戦史研究家としても知ら
れた加登川幸太郎、軍神「加藤隼戦闘隊」の隊長加藤健夫少将の名前がない。
映画「ああ隼戦闘隊」で聯隊旗手をしていたと加藤健夫が述べるシーンがあったので
そう思っていたが加藤健夫は聯隊旗手をしていなかった。
ちなみに加藤丈夫という聯隊旗手はいた。
大切に軍旗の損傷を絵に描いたり写真に撮影したりして記録していた。
演習などで破損して行くのが記録から解った。
最後に記入された時は写真



軍旗を奉燃した後が25聯隊最後の戦いを行うことになる。
樺太に侵攻したソ連軍と終戦後も激しい戦闘を行った。
樺太は日本の領土である、日本人が多数居住している中、住民を巻き込んでの戦闘は
行わず。
自衛戦闘も当初「積極的戦闘は行わず」の命令が出て、後に撤回されたものの命令が
届かず、積極的戦闘を行えないまま戦うことになった。
池田中将の遺品


軍が抵抗すれば住民にも多大な損害出るため、軍はソ連軍へ軍使を送り「抵抗はしな
いから攻撃を停止してくれ」と要請したが問答無用と軍使をソ連兵は射殺してしまっ
た。
軍使殺害は数度行われ、ソ連軍は住民に対し略奪、強姦、虐殺を行い暴虐の限りを尽
くした。
25聯隊はただ、日本人保護のために戦った。
無抵抗でも抵抗してもソ連軍は最期まで攻撃を行った。
ソ連軍はこれを「解放」と呼んでいる。
「熟慮断行」乃木大将の揮毫


沖縄の戦いとは違い、日本軍は日本人の保護を第一としたが、熊笹峠の戦闘など激し
い戦闘を行いソ連軍の樺太南部侵攻への遅滞行動を行った。
沖縄戦が日本国内唯一の地上戦だとふざけたことを述べる輩がいるが、日本国内なら
硫黄島もそうだし占守島も戦場になった。

住民を巻き込んだ戦闘も南樺太の戦闘は終戦後まで行われ、戦後の引き揚げ船までも
がソ連潜水艦に撃沈されているのである。忘れてはならない。
血染めの軍服


歩兵25聯隊の遺産である遺品殿には、そんな緊迫した樺太から送り返された歩兵2
5聯隊の貴重な品々がある。
聯隊将校が戦死した時着用していた血染めの軍服は生々しい戦場の匂いを感じさせ
る。
そんな遺品殿を見て、樺太の戦いを示す資料はないが、そんな緊迫した樺太から送ら
れて来たと思うといろんな感慨が湧く。
樺太の戦いは36年前に映画「氷雪の門」にも描かれたが、ソ連大使館の抗議のため
5億円をかけて制作されたがお蔵入りとなった。
平成22年にやっと札幌でも映画館で36年を経て公開されることとなった。
樺太の戦いは忘れ去られているが、これから知ることもあっていいと思う。

                                      
    平成22年7月9日記す