老人だけでなく、人間は誰でも暴走するものである。暴走すると叱られるから止めるだけである。老人は叱る人がいないので、止まらないのだ。

＜エスカレーション＞

　今の会社員生活に満足はしていないが、特に不満があるわけではない。意欲的ではないと言われれば否定はできないが、今日も昨日と同じように通勤電車に向かって自宅を出た。車内の喧噪はそれなりに緊張感はあるが、慣れてくれば何て事はない。退屈である。
　 さて、昼食でときどき利用する食堂で、ちょっとしたサービスが始まった。定食を頼むと生卵がついてくるのだ。卵かけご飯を食べてほしいということである。定食の水準は変わらず、料金も同じなので、うれしいサービスである。そのせいか、ここで昼食をとる機会が多くなってきた。そんなある日、なんとなくお腹の調子が悪いので、生卵を残してしまった。
「私が残したせいで、今後生卵のサービスがなくなったらどうしよう。」
　 小心者の私は、余計な心配をするのだ。
　 結局、生卵をポケットに忍ばせて、店を出た。午後は忙しく、ポケットの卵をかばんにしまう余裕もなく仕事が続いた。仕事中は、「生卵の存在に気づかれたらどうしよう」と、未体験の緊張感に包まれた。
「何て心地いいんだろう。」
　 この日は、そのまま満員電車で自宅に戻った。たかが生卵一つで、新鮮な気持ちになれたのだ。

　翌日は、生卵をポケットに忍ばせて自宅を出た。退屈な通勤が、油断をすると笑みがこぼれてしまうような楽しい時間になった。もちろん、仕事中もそうである。
「私ぶつかるなよ。卵が割れたら弁償してもらうからな。」
　 そんなことを考えていた。自分が特別な存在に思えてくる。

　しばらくは、充実した日々が続いたが、生卵では満足できなくなってきた。
「生卵は誰かがぶつからなければ問題はない。もっと緊張がほしい。」
　 次の日の朝、私は豆腐を胸ポケットに忍ばせた。もちろん真空パックの上蓋はやぶいている。横揺れでも水がこぼれてしまう。それに胸がふくらみすぎているので、ちょっと大きめの上着を着込んだ。直立不動で立っていればよい電車は何とかクリアしたが、会社は大変だ。うつむけないのだ。着席時の姿勢のよいことを周りの女性にからかわれてしまったが、
「私には、こうしていなければならない理由があるのだ。特別な存在なのだ。ほっといてくれ。」
と、心の中の叫びは、だんだん自意識の強いものに変わっていった。

　しばらくは、充実した日々が続いたが、豆腐では満足できなくなってきた。
「もっと、やわらかくて、ショックに弱いものはないのか。」
　 次の日の朝、私はひよこを胸ポケットに忍ばせた。相手が動く方が、より効果的にあることに気づいたのだ。いつ、どこで泣くのかわからないし、食べ物も与えなければいけないし、その逆もしかりである。じっとしている保証はない。すさまじい緊張感である。
「ピー、ピー、ピー」
　 混雑した電車では問題はないが、静かな職場では気づかれてしまう。
　 私は、とっさにかかってきていない携帯電話を取り出し、適当な用件を話した。すばらしいリカバリーだ。自分の俊敏な反応に酔ってきた。しかし、ジタバタしたときには困った。今日はこれで１２回目である。トイレにしては回数が多すぎる。仕方がないので、いつもはそれほど積極的に業務をこなす方ではないのに、あちこちに出かける用件を作り、業務をすすめた。

　ここで止まらないのが悲しい。
　 気づいたら、ネコに変わっていた。胸ポケットには入らないので、大きめの上着をはおり、お腹をひっこめて大きな空間を作った。お腹をひっこめているのも限度があるので、ときどきふくらんでしまう。このときは、大きなリスクを負う。ネコが爪を立てて怒るのだ。それを回避するためにジムに通い肉体改造も行った。目的を果たすためには、何でもするのだ。

「もっと大きい動物はいないのか。」
　 もう誰にも止められない。
「無理だって。こんな狭いところに入るはずないよ。」
　 クマさんは困った顔で、私に泣き言を言う。
　 それでも、私は止まらない。
　 しかし、いくらなんでもこれは無理だ。自分よりも大きなものが、懐に入るはずはないのだ。
　 今度は、私は困っていたらクマさんから提案があった。
「背負ってみたらどうだろう。」
　 妙案である。私はクマさんを背負い。特大の上着を羽織った。一見、二人羽織のようだが、明らかに黒子の方が大きい。誰がみてもおかしいのだが、客観的な判断ができる心境ではない。大きすぎる黒子のせいで、上着は破れてしまった。
「そうだ。クマの毛皮を着ている人になればいいのだ。」
「・・・」
　 クマさんはいかにも賛成できないという顔をしていたが、翌朝、思い切って、クマさんを羽織ったかたちで自宅を出た。

「ぎゃー」
　 自宅周辺は大騒ぎになってしまった。
　 遠目には、クマが人間を懐に入れているようにしか見えなかった。