私は動物が好きだ。動物と接していると癒されるからだ。ただし、この「癒し」は一般的な解釈とは異なるかもしれない。人以外の生き物の存在が、「地球の ごく自然なかたち」を確認することになるような気がするのだ。人しか存在しない世界はとても不自然で気味が悪い。何とも説明しがたいストレスを感じる。人 がいれば、それよりも大きい生き物、小さい生き物がいてあたりまえ。地表だけでなく、土の中、水の中、空、どこにでも生息できる生き物がいてほしい。
自然の世界に狂信的な固執をしているのではない。人は、器用にも資源を活かして自分たちに都合のよい環境を作り出した。これを否定するのは不自然であ る。文明も自然なのだ。ただ、人以外の生き物がその環境に全く適応できないのが不自然なのである。人に最も都合がよい環境なので、少しは都合が悪いかもし れないが、少しは適応できるはずである。ほかの生き物の逆襲に遭遇すると、物知り顔の人は「彼ら(蜂、クマなど)の方が先に暮らしていた。人のエゴが今回 の事故を引き起こした。」などと、何の解決策も提示せずに勝手なことを言う。これは、人以外の生き物が、ごく自然な回路で人の作った環境に適応しようとし ているのではないだろうか。
本書では、人以外の身近な生き物である犬の諸々の態度は、どのような(思考)回路が成し遂げているのか分析している。ところで、犬の考えることは、テレ ビや映画などのアテレコが誤解を招いているらしい。これらは子ども向けのソフトが多いので、論理的な思考ができる大人になってもなかなか誤解は解消しな い。こうすると喜ぶ、こうすると怒る、拗ねるなど、確かに人にはそのように見えるが、いずれも本心を確認したわけではない。まず、根本的な能力の差異に着 目しなければならない。犬は人とは色の認識が異なる。また、鼻が良いと思われているが、個体差が大きく、おおむね思うほど良くはないらしい。ある犬種の 20%くらいは目が全く見えないか、ほとんど見えない。同種の犬でも、彼らの方が聴覚や嗅覚はほかの犬よりは良くなる。人は医学が高度に発達しているため 先天的な機能を保持している確率が高いが、ほかの生き物はそうではない。それでもこれらの機能は、見た目や、ちょっとした検査で確認するこができる。しか し、脳は難しい。
人においても脳の分析は完全ではない。ほかの生き物はなおさらである。「うそ」という複雑なプロセスが論理的に説明できるほど犬の脳の分析は進んでいな い。人の場合、脳の分析が遅れているのは倫理の問題がある。神の領域には不用意に立ち入ってはいけないという考えもある。義手、義足の技術は遠慮なくどん どん進めて行けるが、義脳はそうではない。さらに今後は、細胞からあらゆる臓器を創成する技術が確立されていくと思われるが、脳はどうだろうか。壊れた脳 を元に戻す程度なら問題はないかもしれないが、天才や奴隷を人工的に創成したがるに違いない。
犬の本心はわからなくても、何かをしたときに犬が離れなければ嫌がってはいないと考えておけばよいのではないだろうか。以前読んだ本(「フロックスはわたしの目」福澤美和 文春文庫)に盲導犬の家出の話が書いてあった。作者の盲導犬が、ある日、散歩から家に戻ったところで、ふと手を離れてどこかへ行って しまった。その夜は帰らず、あくる日、いつものようにベランダの定位置に戻っていた。作者の目は見えないが、彼女はいつもよりも照れくさそうにしていると 感じたらしい。盲導犬は犬の中ではエリートだが、ネコのようなこともするのだ。ちなみに、作者は福澤諭吉の子孫である。また、カヌーイストの野田知佑の本 にも似たようなことが記されていた。カナダのユーコン川を何千キロもカヌーで下っているとき、同船の犬が突然川に飛び込み、川岸から森に消えてしまった。 しばらく停船して待っていたが戻らないので、そのまま漕ぎ出して、2〜3日したら川岸から彼が泳いで戻ってきた。カヌーは数十キロ進んでいるのに。ただ、 この家出の理由は何となくわかった。発情期だったのだ。野田氏は目が見えるので、戻ってきたときの照れくさそうな顔はは っきり確認している。盲導犬も発情期だったのだろうか。去勢されているのだが。まあ、理由は何であれ、いずれも戻ってきたので、そのことだけを捉えて、 いっしょに暮らすことを特に嫌がっていないとだけ考えておけばうまく共存できると思う。
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