ヒマヒマなんとなく感想文|

「いつか、横になるまで 立飲み人生劇場」


(森川 晃 2006.4)

「いつか、横になるまで 立飲み人生劇場」沖てる夫 長征社
「憂歌団「生聞59分!!」」憂歌団 徳間ジャパン30JC-142 夏目書房

 書店で沖てる夫という作者名を見かけたとき、素性は全く思い出せなかったが、全く知らない人ではないと直感した。乱読の習慣があるので、本を入手すると きはちょっとしたひっかかりがあればとりあえず購入している。そして、これから読む本の塊に紛れて、いずれ読むという待ち行列に並ぶ。購入してすぐに読む 本もあれば、読むまでに半年以上待たされる本もある。それでもいずれは読まれる。また、本を読むときは、必ず最初から順に読んでいく。あとがき、解説、作 者プロフィールなどの情報はすべて読後感に華を添えるかたちにしている。さらに、待ち行列は順番を守らない。一つ前の本を読み終えて、次の本をここから取 り出すときの基準は、装丁や量である。通勤用を取り出すときは文庫本を選ぶ。文庫でも長編で分厚いものは、通勤よりも長い移動が予測されるときに選ぶ。寝 る前に読む本で、それが自宅ならばなんでもOKだが、なるべくハードカバーなど読書環境に制限の多いものを選ぶ。自宅以外ならば、持ち運びの荷を軽くする ためにソフトカバーを選ぶし、続き物の長編は避ける。全巻セットで持ち運ぶのは大変だし、かといって調子が良く て途中で本が切れたらもっと大変だ。自宅に4巻、5巻を所有しているのに、旅行先で我慢ができなくて4巻を購入したことがある。自宅のセットは1巻から5 巻まで古書を安価で購入したのに、重複する4巻は高価な新刊を購入した。このように本の選択を間違えると大変なことがおこるのだ。旅行時の本は荷を軽くす るため、なるべく活字密度と難易度の高い本を選ぶ。もちろん、現地の書店で本を入手することはできるが、書店に立ち寄る機会があるかどうかわからない。手 持ちの本がなくなって、書店が見あたらなかったら、一大事だ。本がなければ、電車に乗ることも、寝ることもできなくなってしまう。現地で本が切れて、挙動 不審に陥りあちこち予定外にうろうろし始め、仕方がないのでコンビニで適当な文庫本を購入したが、コンビニに置いてある程度の本では納得できるはずもな い。それでも、なんとかその場の発作を凌いだ。そして、明日改めて大型書店で納得できる本を購入して無事帰宅することができた。

 出先での本の選択は、予想読書時間と出先での読書可能時間、それに読書環境を考慮する大変な作業なのだ。読書時間の予測においては、本の内容がわからな いように、あとがき、解説、プロフィールを見ないように注意して、活字数や難易度を調べる。ほかに、見栄えも考える。車内など他人に見られる可能性のある ときは、あまりかっこわるい本を選べない。かっこわるい本とは、いわゆるベストセラー、有名人の本である。逆の立場を考えてみる。電車の中で本を読んでい る人を見かけると、漫画本や週刊誌、新聞は論外として、単行本の場合はどうしてもチェックしてしまう。この人は貫禄があって社内では重役なのだろうか、で も猪瀬直樹か。ふ〜ん、その程度か。勝ったな。こちらの主婦は、内舘牧子か。旦那が気の毒だなあ。少しは羞恥心を持てよ。いかにも公務員風のこいつは、シ ドニィシェルダンか。しかもハードカバー。センスの悪いやつらばかりで、気が滅入るぜ。と、唐沢孝一の新書を読む。この場合、同じ唐沢の唐沢俊一でもOK である。ここまでくだければ「有り」なのだ。なんのこっちゃ。

 さて、この本はソフトカバーの単行本で、内容が軽く、予想読書時間は2時間。自宅で寝る前の本に選択された。このとき、すでに購入時の印象は忘れてい た。そして、読み進めるうちにだんだん古い記憶が重なるようになっていった。本の内容は、各地の立飲み屋のレポートである。当方は酒を飲まないので、この 本に登場する店にはほとんど馴染みがないし、読後にわざわざ出向くこともないだろう。なぜ、記憶が重なるのだろう。この作者の描く空気感にシンパシーを感 じているのだろうか。当方は食にも拘らないが、出先において食で迷うのが面倒なので、各地に行き付けの店がある。天王寺と京橋、堺筋本町、それに梅田の店 は、おそらく立飲み屋である。早い、安い、うまい、量が多い、客の回転が速い。この条件を満たしていれば、食の種類さえ関係ない。たまたま、大阪市内ばか りだが、これは偶然である。大阪では明るい時間帯でも平気で酒盛りをしている客をよく見かける。一般的に飲み屋の食は酒を飲ませるために塩辛いものが多 く、食だけで入店するときつい。しかし、くだんの大阪の店は案外あっさりしている。元々、食の店なのだが、客が立飲み屋のよ うな雰囲気にしているのだ。もちろん、店も近所もそれを容認しているのだが。

 この本で紹介している店で、入店したことがあったのは1店だけだった。この1店が、古い記憶を呼び起こしているのだろうか。

 本文を読み終わり、最後にプロフィールを読んで、答えは見つかった。作者は、関西で活躍していたアコースティックブルースバンド「憂歌団(ゆうかだ ん)」に歌詞を提供していたのだ。憂歌団は演奏のうまさ以上にユニークな歌詞のボーカル木村の唄が印象的である。憂歌団の曲の記憶が、この本の醸し出す雰 囲気とオーバラップしていたのだ。なかなかめずらしい体験だ。憂歌団のアルバムはどれも優れている。その中からのライブの雰囲気がわかりやすい「憂歌団 「生聞59分!!」」をこの本と併せて紹介する。CD化されているが、オリジナルは1976年に発売された。このアルバムに歌詞を提供しているのだから、 作者が憂歌団に詩を提供していたのは30年以上前である。まだ、20歳そこそこで、人生を達観したような渋い歌詞を提供できていたのはどういうことなのだ ろうか。また、憂歌団からこの本を発表するまでの20年間はどこで何をしていたのだろうか。作者は憂歌団という当方にとっては大きな仕事に関わった有名人 だが、世間ではそうでもないだろう。したがって、作者の過去が第三者にレポートされることはない。

 まあ、過去は詮索しない方がおもしろいことが多いので、今後も機会があれば飛び飛びの成果だけをチェックしていこうと思う。これは、この作者だけに限ら ない。いかなる人においても同じである。経過は言い訳にしかならないと思うので、クールに成果だけを見るのが正しい芸術作品との接触方法だと思う。