1985年のJAL機墜落の話である。この事故についてはいろいろな視点で本になっている。航空機事故そのものからのアプローチ、被害者の補償、裁判、また著名な被害者の家族、プロフィールからのアプローチ、事故原因の飛躍した追求(自衛隊機、米軍機の誤爆説など)からのアプローチなど。悲惨な事故を風化させないため、いずれのアプローチにも賛成する。当方はこれまでに合わせて50冊くらいは読んでいるが、最近は誤爆(さらに飛躍したアメリカの航空機市場拡大を目論む陰謀説)のような焦臭いものが多い。
この本は、事故現場からのアプローチである。当時の細かい事故後の各方面でのてんやわんやを記している。原点に戻ったということだ。ほとんどが既知のエピソード(棺桶調達の顛末など)だが、中には初めて聞いたこともある。たとえば、事故現場(の麓の市街地)の商店からあらゆる商品(食品、雑貨などなんでかんでも)が消えたらしい。JALが買い占めたのだ。現場で捜索活動をする人たち、被害者の家族、報道関係者、やじ馬など膨大な数の人たちのあらゆる物品の要求に応えるために集めたのだ。もちろん、要求があれば無料で配布する。食品だけでなく、靴、ラジオ、化粧品、上着、下着、それに生理用品まで。やじ馬にはたちの悪いのも多かったらしい。物品を頂戴するためだけに集まってきた連中である。 JALとしてはいちいちチェックできないので、やじ馬の理不尽な要求にも応えていた。
物品だけでなく宿泊先もすべて押さえていたので、どこでも無料で宿泊することができた。そこでの遊興費もすべてJALがもつ。 とんでもない話だが、事故直後はどこも報道しないし、JALも文句は言えなかったのだ。JALは半官半民なので費用に関する拘りはないのかもしれない。しかし、湯沢の温泉地で芸者をあげてのどんちゃんさわぎに無条件で無関係(もしかしたら関係者かもしれないが、誰も確認していない)の輩にカネを支払う体質には本質的な問題があったと思う。群馬の山奥から湯沢までのハイヤー代金も含めれば数十万円にはなるだろう。事故は事故として事後処理にベストを尽くすべきだが、そんな修羅場でもある程度の冷静さは必要だ。カネに無頓着な体質がその後の低迷につながっていったのかもしれない。
実は、初めて航空機に乗ったのは、この事故の直後で敢えてJALを選択した。正確には予約なしで羽田空港に行ってみると、JALカウンターは空いていた(誰も並んでいなかった)からである。機内も人はまばらで、横も前後も誰もいなかった。とてもゆったりした気分だったのだ。札幌で荷物を受け取るときも乗客が少ないのですぐに出てきた。隣の同じ羽田からの他社到着便は満席で荷物が運ばれるベルトコンベアが見えないくらい大勢がたかっていた。
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