ヒマヒマなんとなく感想文|

「百名山」にまつわる3冊


(森川 晃 2005.5)

1「百名山の人 深田久弥伝」田澤拓也 角川文庫
2「傷だらけの百名山」加藤久晴 新風舎文庫
3「続・傷だらけの百名山」加藤久晴 新風舎文庫


 「百名山の人」は著名なアルピニスト深田久弥のエピソードをまとめたものである。アルピニストの多くは困難な登山記録を残し、登山イコール冒険のイメージを見せつける。深田氏はその気になれば誰でも登ることのできる範囲ですぐれた眺望、ユニークなルートを紹介している。とは言っても、1960年代までの登山ルートは未整備の区間が多く、登山はそんなにお手軽なものではなかった。また、車で行くことのできる登山口が現在よりも麓に近かった。したがって、麓付近は登山としては楽なルートかもしれないが、ルート延長がかなり長くなってしまう。登山は日数のかかるものだったのだ。そのことが登山装備の準備などにも関わり、登山が時間とカネのかかる道楽として確立させていた。これは登山が「危険」という意識を植え付けるほどではなくても、ある程度の緊張感を持たせてくれた。登山は楽しいが、それなりに負担も多い。だから、止められないという具合に正しいマニアが育った。

 さて「傷だらけの〜」である。この本では、左翼系の記者が登山を通じて自然破壊を止めるように訴求している。記者は登山マニアというわけでもないようだ。マニアならば不満を蓄積するために登山はしないだろう。あくまでも楽しみのために登るものだ。もし、不満が多い山ならば、その山には登らないようになるだけだ。無名で眺望の良い山はいくらでも残っているのだ。文句を言う材料を見つけるために登山を継続するのは、仕事かもしれないが辛いことである。

 この本では、いろいろな方面から文句をつけている。ゴミ問題が多いが、やはり人間そのものへの文句が多い。ゴミも突き詰めれば「人間が悪い」につながる。山小屋のバイトの態度が悪い、山小屋の飯が高くてまずい、山小屋の風呂が汚い。山小屋に関する文句が多いということは、記者は山小屋を利用しているのだ。文句があるならばテントを持参しれば良いと思うが。毛布が汚い、少ないという文句もあった。シュラフくらいは山小屋を利用するとしても持参してほしい。登山道の案内板がわかりにくい、混雑している。登山道にも文句があるようだが、登山をするときは一般的には地図を持参するものではないだろうか。混雑についても地図があればある程度は回避ルートを見つけることができるだろう。上級者ならば地形図を見て独自のルートを開拓することもできる。このあたりで、記者が決して深田氏のようなアルピニストではないことがわかるだろう。それなのに、ふつうのズック靴(現在の言い方ならばスニーカーだろうか)で登山に来る連中を批判している。いずれハイヒールで来るかもしれないと余計な心配をしている。さて、メジャーな登山ルートで本格的な登山靴が必要なルートは存在するだろうか。冬季は別にすれば、水にある程度強いものならば何でも良いと思う。さすがにビーチサンダルは無理かもしれないが、運動靴ならばたいてい問題ないと思う。

 登山の難易度は山の高さや眺望ではなく、登山道の整備状況で決まると思う。風光明媚で著名な登山ルートの多くは高規格ルートなので、登山者の装備への負担は少ない。軽装で良いと思う。たとえ標高100メートル程度の山でも登山道が未開発ならば重装備にすべきである。藪を切り開く鎌も必要かもしれない。過度な装備は、登山という楽しみを一部のマニアだけで独占させる要因になるだけである。適度で合理的な装備で、文句を言わなくても済む山を選べば、どんなかたちで登山にアプローチしてもかまわないだろう。それが登山の本来の姿ではないだろうか。

 当方は中信高原の八ヶ岳に自転車を担いで登ったことがある。下りで楽をしたかったからである。登山ルートは良好で自転車でも十分走ることができる。上りは下山する人たちに労いの言葉を頂いたが、下山時は高速で追い越す当方に不満もあっただろう。こちらは早すぎて何を言われても聞こえないが。また、宇奈月からトロッコで欅平まで行ったとき、同じトロッコで戻るのはおもしろくないので、そのまま黒部川に沿って黒部ダムまで行けば、アルペンルートで富山に戻ることができると思い、運動靴で水筒(ペットボトル)くらいしかない旅行者の格好で進み始めた。食料はないが、何とかなるだろうと安易に考えていた。そして、1時間くらい進んでから「無理」と判断した。夕方だったので、トロッコに戻っても最終ぎりぎりで、黒部ダムに到達してもアルペンルートの最終に間に合わないことがわかったからだ。大型時刻表は持っていたが、ここで野宿する装備は持っていないので、ほかに選択肢はなかった。登山は危険なので安易な装備、軽い気持ちでトライしないでほしいという警告は決して間違ってはいない。しかし、当方は自殺するために山に登っているのではない。装備を見て、保身のためにどうすべきか判断することはできる。ときには判断を間違えて危険な目に遭うこともあるが、それはそれで置かれた状況においてさらに厳しい判断を下す。安全な方が良いに決まっているが、過保護は最後の判断をする能力を育てないような気がする。偏屈なレポートで登山を拒ませるよりは、とにかく現地に行かせてみて、自分で適応性を判断する方が合理的である。本で行動を規制するのは危険回避の面では賢明かもしれないが、あまりおもしろい生き方とは思えない。

 登山に限らず、油断をすると生死に関わることは、団体に消極的に参加したケースが危険だと思う。自分の強い意志で参加したものならばいかなるケースでも自分で判断する機能が働くが、「ついていった人」はあっけないくらいに悪い方に傾いていく。山歩きをしているとときどき複数の事故死があった箇所に至ることがある。気象条件が良好ならば、決して転落事故を起こすようなところではないのだ。なぜここから落ちたのかどうしても理解できない。立ちくらみで落ちたのだろうか。それならば手前の平坦は広場で休憩して体調万全にしてから崖道に向かえばよい。それが許されないのは、まぬけなリーダーの団体の一員だったか、本人が自分の体調すら確認できないほど弛んでいたくらいしか考えられない。前者は、登山を肉体鍛錬のスポーツの一環と勘違いしている団体なので、即座に辞めてしまえばよい。登山はあくまでも旅行の延長である。自分の体力や持ち時間、持ち金に見合った山を選べばよいのだ。後者の場合は登山だけでなく、ふつうの生活にも支障がありそうだ。あまり外には出ない方が無難なのかもしれない。