ヒマヒマなんとなく感想文|

「たけし事件 怒りと響き」


(森川 晃 2004.3)

「たけし事件 怒りと響き」 筑紫哲也監修 太田出版

 ビートたけしとたけし軍団が講談社FRIDAY編集部に殴り込んだ事件について、たけし寄りの意見を集めた本。太田出版なので仕方がないが、多くの著名人がこの機会にマスコミ批判を繰り広げているのがおもしろい。
 この事件は、ビートたけしの愛人をFRIDAYが執拗に追い回し、彼女に暴力をふるったことに起因している。このことに逆上したビートたけしと仲間たちが夜襲をかけたという、ただそれだけのことである。

 マスコミ関係者はプライドが高い。業界への就職希望者は多く、まともな方法では企業には所属することができない。難関中の難関である。しかし、難関であることが当事者の情熱を間違った方へ進めてしまう。希望する企業、希望する部署、そのような夢は元からない。日取りが許すかぎりできるだけ多くの企業を目指して、たまたま採用されたところに落ち着くだけである。マスコミ業界の職種はとても多いが、職種を選択できるのはほんの一握りの人たちだけである。業界への入口ですでに激しい淘汰を目の当たりにして新鮮さが失せてしまう。そうなると、プライドを維持することだけが使命になるのは時間の問題である。この使命は歪んだ正義感に至ることが多い。例えば、何らかの凶悪事件が発生したとき、加害者と被害者が当事者になる。直近での解決は警察の仕事である。怪我をしていれば医者の出番である。それから先は裁判に持ち込まれる。当事者はあくまでも加害者と被害者のままで、関係者に警官、医者、弁護士、それに当事者の親族などが含まれる。いかに広く解釈してもマスコミは見学者以外の何者でもない。ある程度優遇された見学者、野次馬の代表 である。その立場をわきまえないマスコミ関係者が多い。くだんの凶悪事件に直面(見学)しているときは、警官でも冷静に対応しているのに、記者が鉄槌を加えるかのごとく加害者を問いつめている。ゆがんだパフォーマンスに過ぎない。取材は冷静に事実だけを拾えば良い。鉄槌は新聞ならば社説で、テレビならばニュース解説で「意見」としてアピールすれば良いのだ。

 戦場カメラマンに対して、人道派のキャスターが、「子供が撃ち殺されようとしているときに、写真を撮るか、助けるか」というようなマスコミ仲間を陥れる質問をする。このとき、カメラマンは「写真を撮る」と答える。キャスターは、観客(マスコミ関係者以外の人)を煽動してカメラマンを人非人として詰る。すると、カメラマンは「写真を撮って、世界の人にこの悲惨な現場を見せるのが、私のミッションである。これによりくだらない戦争そのものを中止させることができるかもしれないのだ。」と正義感を露わにする。すると、キャスターはあっぱれと彼に同意するようになる。もちろん観客もそれにつられる。というような茶番には当方はつきあいきれない。どうして当事者でも関係者でもない人たち(カメラマンとキャスター)が、正義感を抱くのだろうか。好奇心以外に何もないはずではないのか。好奇心は恥ずかしいのか。好奇心ではプライドが保てないのか。プライドを保たなければいけないのか。戦場カメラマンは、戦場が好きなのだ。

ただそれだけである。マスコミに所属するサラリーマン記者は、社命で仕方なくやってきたかもしれない。しかし、出張では本当に危険なところに行くはずがないのだ。したがって、戦場には戦場が好きな見学者しかいないのだ。むしろ、当事者の方が戦場は好きではないだろう。被害者はもちろん、加害者も仕方がなく来ている兵士もいる。つまり、戦場で最も戦場に関心があるのが戦場カメラマンなのかもしれない。好きで来ている戦場で怪我をしたり人質になったりして、果たして本心で文句を言うものだろうか。文句を言わないのがふつうのような気がする。


戦場を野球場に置き換えてみる。野球場でファールボールが直撃したら、果たして野球場や球団に文句を言うだろうか。もし、文句を言っても、「好きで野球を見に来ていて怪我をしても仕方がない」という論理で同意を得られないのだ。今回、イラク人質事件でNGO関係者に対してもこの論理が高じて「自業自得」と批判された。当方は、NGOの人たちについては、好きで行っているのは確かだが、戦場カメラマンとは異なると考えている。イラクには行ったが、決して戦場を目指したわけではないからだ。戦争状態でも戦場以外での戦闘はファールである。もちろん、捕虜という扱いではないのでルールは守られていたのだが。どのみち、NGOの3名と後続のジャーナリスト2名とは動機が異なると考えている。3名は「自業自得」批判でPTSDに陥ったようだ。当方は彼らには問題はなかったと考えている。彼らの家族が無理解なのがまずいと思う。ヒステリックな家族が騒動を大きくして、社会批判を浴びるようになったのだ。「家族の反対を押し切って、イラクでNGO活動をして拘束された」だから、自業自得という結論に至った。彼らに非があるとすれば、家族 を説得できなかったことくらいである。ジャーナリスト2名は、NGO3名とは明らかに異なる印象がある。「自業自得」批判は同様だが、2名は「当然」と構えている。家族の対応も冷静である。いかにも戦場が好きだから好奇心で見学に行ったという感じで、家族もこの性行を認めているのだ。すでに新聞紙上で(安田氏の)手記が掲載されている。貴重な体験をしたので、詳細な報告を期待している。おそらくジャーナリスト2名は期待に応えてくれるだろう。しかし、NGO3名は手記をまとめる気にもならないだろうし、もし出版されても揶揄対象にしかならないような気がする。もったいない話である。


 長々とマスコミ関係者の話を記したが、要するに「好奇心」に大義名分は不要であるということである。また、のぞき見にはリスクはつきものということである。

 次にタレントのプライバシーについて記す。先に結論を記す。ビートたけし本人、および家族、愛人にはプライバシーは存在しない。彼は自著やラジオ番組などマスコミ媒体で、自身のプライバシーだけでなく、家族や愛人のことも公開しているのだ。ラジオはマニアックなファンが多かったが、深夜放送なので聴取の絶対数は多くなかった。当方は欠かさず聴いていたわけではなく、ときどき聴いていたが、プライバシーに関するネタは多かった。家族構成や、自宅の住所などはおおむねわかっていた。そして、自伝的小説「たけしくんハイ」がベストセラーになり、NHKでドラマ化されることにより、全国の人が家族構成を知ることになった。本人だけでなく、家族も有名人なのだ。このようにプライバシーを公開することで生計をたてているのだから、それなりのリスクはつきものだろう。長兄はすでに大手企業の重役で、そのまま落ち着いている。しかし、次兄(北野大)はタレントに転じて莫大な富を手にしている。姉は嫁いでいるが、信州でペンションを経営しており、おそらくビートたけしの姉ということを知る客がやってきているだろう。当方は特別にビートたけ しのプライバシーを追求したわけではない。それでも長兄の企業名やそこでの役職、次兄のプロフィール、姉の経営するペンションの住所を知っている。次兄はタレントなので知られても仕方がないが、長兄や姉はプライバシーが公然に晒されていることを留意しなければならない。幸いお二人とも楽天的に捉えているようだが。

 プライバシーを守りたいのならば、それなりに留意すべきである。フーテンの寅さんこと渥美清が鬼籍に入ったとき、葬儀で初めて家族の存在がわかった。身近な人でも既婚かどうかさえ知らなかったのだ。もし、渥美清の子供がFRIDAYに盗撮されたら問題になるかもしれない。しかし、ラジオで存在を認めていたビートたけしの愛人は、すでに有名人なのだ。スターにはリスクはつきものである。


 さて、FRIDAY夜襲事件は深夜3時くらいの出来事である。FRIDAY編集部は夜警ガードマンが襲撃されたのではない。勤務中の職員が襲撃されたのだ。ビートたけしは居酒屋で宴会をしている最中に、その足で襲撃に出かけたのである。午前3時は、襲撃される方もする方も稼働時間帯なのである。ビートたけしは宴会なので稼働とは言えないかもしれないが、タレントの宴会は情報収集の現場でもあるので、ある種の稼働時間だろう。つまり、双方とも昼夜が逆転した同業者なのだ。仲間割れにすぎないのだ。

 この本にも記されているが、FRIDAY編集部の非は、襲撃されたときに警察を呼んだことで、ビートたけしの非は一人で行かなかったこと、そこに帰結する意見が多い。また、疑問点を呈する意見もある。なぜ、襲撃されたとき現場を撮影し、FRIDAYに掲載しなかったのだろうか。苦労して外でシャッターチャンスを待つ必要もない。被写体がわざわざやってきたのに。当方は、FRIDAY編集部の非は、その点ではないかと考えている。FRIDAYの使命として、いかなる状況においても現場写真を掲載すべきだったと思う。実は、この点(FRIDAYが使命を放棄したこと)が、この事件を素直に判定できない原因である。計算された仲間割れという考えが浮かんでくる。誰がどのように得をするのかわかりにくいが、この事件の後、複数あった写真誌が次々に廃刊に追い込まれた。発行部数の少ないものから廃刊し、ついに老舗のFOCUSが廃刊になった。なぜかFRIDAYは低俗路線を維持したまま残った。まさか、このような最終形を想定したFRIDAY側の陽動作戦だったのか。なかなか本当のことはわからないものである。