ヒマヒマバブル絶好調道の川柳・森川晃

観光路線高速道路化の条件01



【はじめに】

 2009年3月20日、横浜横須賀道路の佐原ICと馬堀海岸ICの間4.3
キロが開通した。この開通により、1979年12月の日野ICと朝比奈IC間
の初開通 以来29年3ヶ月で全通した。

◆表1
横浜横須賀道路の開通経緯
1979年の初開通から5年後の1984年までに、狩場ICから衣笠ICまで
開通している。この区間が横浜横須賀道路の純然たる産業道路区間である。それ
以降の開通区間は、平日交通量の少ない観光路線である。これらの路線は、横浜
横須賀道路単体で収益を考えず、第三京浜道路、横浜新道というとっくに無料開
放していなればいけない有料道路と合せた料金プール制の導入に至るきっかけに
なっているように思う。

ずいぶん長い歳月を経たように思うかもしれないが、三浦半島という通過交通が
ほとんど発生しない区間で、尖端部まで到達させたのは横須賀市の実力を感じ
る。それと も、小泉前総理の力なのだろうか。

 ウイークデイに交通が発生しない観光路線は、ピークの交通量が相当大きくな
ければ高速道路のような高価なインフラは整備されない。そのため観光地の道路
は渋滞が頻発する。しかし、ピークの渋滞が深刻ならばたとえ休日しか利用され
なくてもインフラは整備される。たとえば中央自動車道の河口湖支線のような路
線である。そもそも中央自動車道は、開通当初は河口湖支線の開通を目指した観
光路線だった。東京と富士五湖を結ぶために整備されたのだ。当時、東京から放
射状に整備された高速道路 は、東名高速道路と中央自動車道だけで、2本に1
本が観光路線である。

 高速道路 は、業務利用では特に急ぐ輸送を強いられたとき、一般にはいわゆ
るハレの日に利用するものだった。中央自動車道は高速道路利用を促進する宣伝
材料のようなものである。それにしては宣伝費用が高すぎるが、一般道路の国道
20号、国道139号の渋滞が深刻だったのは確かなので、それほど無駄ではな
い。河口湖支線の交通量は2009年には1日平均で15000台くらいであ
る。先述のように観光路線なのでウイークデイの交通量は少ない。長く暫定2車
線で開通させていたが、ピーク時にはこ れでは耐えられなくなった。

 2車線の交通容量は10000台から14000台くら いである。4車線拡
幅は1984年11月30日なので、このころにはピーク時の交通量が
10000台を超えていたということである。ちなみに4車線の交通容量は
48000台である。現在は1日平均15000台なので、ピーク時の交通量が
平日の7.4倍でも30000台程度で、交通容量には十分収まる。平日には全
く走行しないと仮定しても休日交通量は35000台である。インフラとしての
不足はない。(それほど難しいものではないが、論文みたいになってしまうので
交通容量の計算式 は省略します。)

 ところで、この交通量は1日(24時間)の総交通量である。観光路線は夜間
交通量が極めて少なく、昼の短時間に集中することが多い。そのため不足のない
インフラでも渋滞が発生することはある。それでも公共事業なので過剰インフラ
にならないよう 我慢できる許容範囲を見極めて整備していかなければならない。

◆表2
中央自動車道の開通経緯
1967年の初開通から2年後の1969年までに、調布ICから河口湖ICま
で開通している。高井戸ICまで開通させる予定だったが、沿道環境対策の遅延
により間に合わなかった。それでも、おおむね東京と富士五湖を結んだ。堂々た
る観光路線である。その後の中央自動車道本線の開通は名古屋側から長野に向か
う区間である。

 1 976年に高井戸ICは設置されなかったが、首都高速と接続し、利便性
が高まった。それでも東京と長野県を経て東海地方を結ぶかたちにはならなかっ
た。相変わらずの観光路線である。1977年に大月JCTから勝沼ICまで開
通してようやく甲府盆地に連絡することができた。そして、1982年に全通
し、東名高速道路のバイパス機能を果たすようになった。河口湖までの観光ルー
トから東海道軸を補間する産 業道路に変わるまで13年以上かかったのだ。

続く