ある日、街を歩いているとプーンと香ばしいカレーの匂いがした。導かれるままに、いくつもの角を曲がり、結構な距離を進んだ。ボクには動物のような鋭い嗅覚があるかと錯覚するほど、迷わずに進んだ。
「やあ、いらっしゃい。」
道端でカレーが振る舞われていた。堂々たる体躯だが、威嚇する感じはない。むしろユーモラスで親しみやすい雰囲気だった。大きな丸い顔の上にターバンを 巻いていて、その上にはやはり丸い大きな耳が2つ突き出している。太い左腕でカレー鍋を持ち、右手にはオタマを持ち、ゆっくりかき混ぜている。カレー鍋の 奥に見えるエプロンにはクマのプーさんのかわいいアップリケ。ごつい体とカレー、それにかわいい衣装、アンバランスなキャラクターは、とても簡単に結びつ いた。なにしろ、この人はクマだったのだ。
「ものすごくいい匂いですね。匂いにつられて随分歩いてきたよ。」
「そうですか。でも、匂いだけよくてもね。まあ、食べていってくださいよ。」
「是非、お願いします。」
いくらくらいするのだろうか。値段はどこにも記されていなかった。でも、値段がいくらでもいいと思えるほど、すばらしい香りだ。それに、この人、いや、このクマさんは決して悪そうには見えないし・・・。
「どうぞ。」
大皿に大盛りごはんが盛られ、その上にたっぷりとカレーがかけられた。一般的なカレーには、福神漬けとからっきょうが添えられるが、脇の樽から大量の山菜と野いちごをつかんでのせた。見た目にはおしゃれではないが、素朴で、なんだかなつかしい気がする。
そして、一口食べてみて、なつかしさが確信に変わった。理由はわからないが、昔どこかで食べたことがあるような味だった。
大盛りだったはずなのに、気づいたら完食していた。
「どうでしたか。」
「とても、おいしかった。それに、なんだかなつかしい感じがした。」
「そうですか。他に何か感じませんでしたか。」
「うーん。難しいなあ。いつ、どこで食べたのか詳しいとことは思い出せないし。覚えている限りのすべてのカレーとは比較にならない味なので、うまく表現できませんよ。」
クマさんは、ちょっと困った顔をした。そして、別のカレー鍋を取り出した。
「これと比較してみてくださいよ。」
今度は、ボクが困った顔をした。大盛りを食べたばかりなのに、そんなことにはおかまいなく、先ほどと同様、大皿の大盛りごはんにカレーをかけ、山菜と野 いちごをひとつかみ。正確には、クマは「つかむ」ことができないので、「すくう」のだが、手が大きいので、とんでもない量だ。
「どうぞ。」
「ありがとう・・・」
ボクはそれほど大食いではないが、人の、いや、クマさんの好意を無にするのはよくないので食べ始めた。ゆっくり食べたいので、少し話をした。
「クマさんは、インド出身なのですか?」
「いえ、北海道の日高です。インドにカレー修行に行ったので、ターバンを巻いているのです。」
インドに行ったこととターバンは関係ないと思うが・・・話を続けた。
「どうして、カレー修行に・・・」
「子どものころ、近くで人が集まっていたので、様子を見に行ったら、キャンプをしていたのです。ところで、私はクマさんではなくて、クマールさんですよ。」
「えっ」
「私はインドではみんなにクマールさんと呼ばれていたからクマールさんなのです。」
よくわからない論理だ。自分から話始めたのに自分でそれを遮って説明するほどのこととは思えないが、まあ、よしとしよう。
クマールさんは、改めて子どものころの出来事を話し始めた。
キャンプにやってきた青年たちは、最初、テントを張っていた。クマールさんはテントの周りに溝を掘った方がよいと助言した。
「山の天気は変わりやすいので、水はけをよくしておくことが重要なんだよ。」
青年たちは山の生活に慣れたクマールさんに感心した。また、森に薪を取りに行ったチームが戻ってくると、燃えやすい木と、燃えにくいが長く燃える木を選別した。クマールさんはとても役に立ったのだ。
暗くなったので、森に還ろうとしたら「いっしょに食事でもどうですか」と、誘われた。クマールさんに限らず、食事の誘いを断るクマはいないので、喜んでそれを受けた。
何を作っているのかわからなかったが、しばらくするとごはんの炊けるいい匂いがしてきた。これだけでも十分だと思ったが、大きな鍋に黄色い粉をまぶす と、これまでに嗅いだことのない得も言われぬよい香りがする。その強烈な香りは森いっぱいに広がり、森の小動物たちも集まってきた。シカさん、リスさん、 ウサギさん、それにキツネくんも。
「よう、クマ公、何の騒ぎだい。」
「この人たちが、夕ごはんをごちそうしてくれるんだ。その匂いだよ。でも、キツネくんの分もあるのかなあ。」
「大丈夫ですよ。どんどん増やしますから。」
青年たちの一人、リーダーとおぼしき女性のやさしい一言で、森のみんなも安心した。でも、本当に安心したのはクマールさんだった。みんなにあげると自分 の分が少なくなると心配していたのだ。これまで、食事は質より量と考えていた。特に子どものころは大きくならなければならないので、無理をしてでも多く食 べるようにお母さんに言われていた。だから、残したことは一度もなかった。まあ、無理をしたことは一度もないが・・・。
大皿に大盛りごはんをよそい、そこに強烈な香りを放つ謎のルーをかけた。ごはんの周りには、青年たちのさらに別のチームが摘んできた山菜と野いちごが散りばめられていた。
「おいしい。」
クマールさんはこのおいしさに驚いた。質より量というポリシーがぐらついた。
質も量も重要だ。
クマールさんはリーダーにこの料理のレシピを尋ねた。
「これは、カレーライスというものです。ごはんは別にして、カレーには特に厳格な定義はありません。ありあわせの肉や野菜、果物などを煮込んで、最後にカレー粉をかければいいのです。」
「ずいぶん簡単な料理に聞こえるんだけど、簡単なものほど案外再現することは難しいんじゃないですか。」
「クマさんは鋭いね。確かに再現は難しいでしょう。今日と同じ食材を用意しても、外で調理しているから気温や湿度によっても味は変わるし、水の違いも重要 です。おそらく、完璧な再現はできないでしょう。でも、再現する必要もないと思います。それが、カレーという料理のよいところでもあるのです。」
「なるほど。」
「毎回、異なる食材でも、総合しておいしいと思えれば、それで合格です。」
「そうか・・・。ところで、カレー粉って何ですか?」
「うーん、実は私もカレー粉はよくわからないのですよ。だから市販のものを使っています。本当は数十種類のスパイスの組み合わせで作られていて、とても素人には調合できるものではありません。」
「でも、ボクはクマだから市販のものを買うことができない。自分で調合しなければならないですよね。」
「そうですね・・・」
リーダーはこれ以上説明するのがめんどうになったのか、最後にとんでもないことを言った。
「カレーのスパイスはインドにあるから、そこで調合の仕方を覚えればいいですよ。」
まじめなクマールさんは、こうしてインドにカレー修行に出かけたのだった。
「なるほど、そういうことだったのですか。」
「スパイスの種類はわかったけど、組み合わせは無限なんですよ。だから、どうしても、納得できないのです。ところで、カレーの味はどうですか?」
「おいしいですよ。」
「そうじゃなくて、先ほどと比べて・・・」
困ったなあ。ボクはそんなにグルメじゃないし・・・、まあ、適当なこと言ってごまかしておこうかな。
「先ほどと比べると、やや辛さが後から追いかけてくる気がします。」
「えっ、そんな・・・」
何か間違ったことを言ったのかなあ。正直に言えば違いはよくわからないが、どちらも、何度も食べたくなるほどおいしかった。それでは答えにならないと気を遣ったのに。
クマールさんは、オタマで、別のカレー鍋をかき回した。
「あっ、あのう・・・」
一心不乱にかき回していた。そして、大皿に大盛りごはんをよそい、そのカレールーをかけた。もちろん、大量の山菜と野いちごを添えて。
「これを食べてみてください。」
3杯目。一皿が大盛りなので、一般的にはその倍くらいだろうか。実は、一度だけカレーの大食いに挑戦したことがあった。CoCo壱番屋というカレー チェーン店で、1300gを20分以内に食べると無料になった。このときの量よりもやや少ない気がするので、3杯で3000g。山菜と野いちごも半端な量 ではない。
どうしよう。
クマールさんは「どうしてわかってくれないんだ」と言いたげな寂しそうな顔で、こちらを見つめているし・・・。ただ、不思議と苦痛ではなかった。おいし いのは間違いなかったのだ。「おいしいのでいくらでも食べられる」という言い回しは、実際にはあり得ないと思っていたが、そうではなかった。お腹がどんど ん大きくなっていくのははっきりしているが、ただそれだけだった。
3杯目を食べ終えた。クマールさんが見つめている。何か言わなければ。
「おしいです。それだけでいいじゃないですか。」
「で、でも、それでは私は納得できないのです。」
4杯目。
どれも似ている。違いはわからない。
5杯目。
6杯目・・・。
11杯目にして、ようやく少しだけ違いがわかった。スパイスの何か一つの香ばしさが微妙に異なるのだ。
「これまでに比べて、香ばしいです。スパイスを炒る時間が長いか、火力が強いはずです。良いアクセントになっていると思います。」
「その通りです。」
やった。ようやく違いがわかるようになった。これで開放してもらえそうだ。
「で、味は?」
「えっ」
ボクは、作り方の違いに気づくべく集中していて、味の感覚のことを忘れていた。
「味は・・・おいしかったです・・・」
「そうですか・・・」
クマールさんはボクに背を向けてしまった。失望したのだろうか。いや、そんなことはない。何かをすりつぶす音が聞こえた。新たなパウダーを調合していたのだ。クマールさんはとことんまじめな性格なのだ。
それから何杯食べたのだろうか。よく覚えていない。ただ、こんなに食べても全くつらくない。とてもおいしかったという素敵な気分だ。お腹はどんどんふく らんでいるので、満腹であることは間違いないが、脳はそう判断していない。少なくともクマールさんのカレーならばまだ食べられる。妙な感覚だ。
「まだまだ、修行が足りないようだ。満足させられなくて申し訳なかった。」
「いや、とんでもない。」
満足したと言っても信じてもらえそうもないし、していないと言ったらがっかりするし・・・。
「もう暗くなってきたから、今日は店じまいにするよ。」
助かった。
「おいくらですか?」
「クマはお金をもらっても使い道がないんだよ。」
「そうですか・・・じゃあ、今日はごちそうさまでした。」
ボクは逃げるようにその場を立ち去ろうとした。すると・・・
「ちょっと待ってください。」
「もう勘弁してくださいよ。」
「これを持って行きなさい。」
クマールさんとおそろいのクマのプーさんのエプロンだ。
「どうして、それをボクに。」
「だって、それを着ている方が何かと都合がいいと思うから。」
おおきなお腹。全体に丸みがかった体に、大きな丸い顔、その上に丸い耳が二つ。
ボクは、クマになっていたのだ。
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