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米軍パットン将軍とサン・マロ




ノルマンディーの旗が掲げられたモン・サン・ミッシェルから少し西、
ブルターニュのサン・マロにも、城壁に囲まれた島があった。

こちらも別の戦争で要塞として使われた。
1944年6月6日の上陸作戦が行われたのは、モン・サン・ミッシェルより
もっと北の海岸だが、米軍が南下する際に近くを通っている。
第二次世界大戦末期の1944年8月、サン・マロの古城フォート・ナショナー
レは、ドイツ軍がたてこもり、米軍が陸上から砲撃を浴びせる激戦地となった。
ドイツ軍は、地下60メートルにまで地下壕を掘って、抵抗戦を続けていたが、
8月14日、オーロッシ大佐率いる606人のドイツ兵は、投降した。


そして、パウルス高地上のサン・マロ城要のドイツ兵約350人(パヘラー大佐
指揮)は、8月15日に投降。6月6日に、ノルマンディーに米英連合軍が上陸
してから、2ヶ月以上あとのことである。このサン・マロでのドイツ軍の抵抗の
おかげで、米軍による、ブレストの陥落は9月19日までズレ込み、サンナザール
とロリアンは、終戦までドイツ軍が保持。

このフランス・ブルターニュでの戦いは、米軍のパットン将軍の戦ヘタさの象
徴となった。圧倒的な物量による快進撃は得意でも、町を1つ1つ制圧する細か
い戦争がヘタな粗雑なパットン将軍。この3つの町をなかなか落とせなかったお
かげで、パットン部隊は、ドイツ国境へ前進する自軍主力への補給に常に苦しむ
ことになったのだった。

ブルターニュ地方に配備されていたドイツ軍部隊は、カーンやファーレーズの部
隊に比べると、二流どころか三流の遊休部隊だった。そのような詳細を知る軍事
マニアからは、パットン将軍の軍人としての評価は低い。

米軍のブレスト攻制圧が9月19日。
その2日前の9月17日から、、米英軍主力ははるかオランダへ侵攻していてド
イツ国境へ肉薄中。
いかに、パットンのブルターニュ作戦がヘタクソだったかがわかるであろう。
ブレスト、ロリアン、サンナザールが落とせなかったために、米軍は、2万以上
の兵力を、ここに無駄遣いさせられ続けていたのでした。