戦争・軍事 > 戦争と音楽の深い関係|戦史研究家のロシア名曲鑑

戦争と煙草の深い関係―「一服しよう」

戦史研究家のロシア名曲鑑9
(戦史研究家&ロシア歌曲歌手・ミハイル・フルンゼ


戦争と煙草の深い関係―「一服しよう」≪Давайзакурим≫
(黒海艦隊の海軍歩兵たち)



 我々昭和の真ん中世代が子どもの頃、太平洋戦争の従軍経験者はそこらにゴロゴロ
居た。1970年代ならまだ40代〜50代で、口が重い人は多かったが、現役世代で酒も進
む元気さから、時には戦時中の思い出話を夕べの団欒や旅先の夕げで話題にしてくれ
ることがあった。

 徴兵世代である彼らの話で面白かったのは、大部分が軍隊で煙草を覚えたというこ
とだ。タバコを吸うにも軍隊流のスタイルがあり、陸軍の内務班生活では休憩時にい
つでも吸うというわけにはいかず、夕刻の課業終了後に煙草盆(灰皿)が準備された
場所で集まって喫煙を楽しむということになっていたようだ。戦地では、行軍途中の
小休止時など、可能な時間、ひんぱんに吸っても構わなかったそうで(もっとも煙草
が十分にあればだが)、煙草と兵隊生活は切っても切れないものだったようだ。

 実際、どこの国の軍隊でも弾薬、食糧とならんで煙草は重要補給品と位置付けられ
ていた。煙草の欠乏は士気にも関わるものとみなされ、可能な限り(時には食糧に優
先してさえ)欠乏しないよう兵站業務上も重視された。

 それは、独ソ戦での旧ソ連軍でも同じだった。面白いのは、旧ソ連軍では将校向け
と下士官・兵卒向けに補給される煙草の種類が異なることだ。20世紀半ば、世界的に
普及していたのはシガレットと称する紙巻煙草であったが、旧ソ連では大衆向けに前
世紀以来の刻み煙草マホールカが、正に刻み葉のまま普及していた。吸う者は、手ご
ろな紙をちぎってマホールカを載せ、巻いて火をつけたのだ。将校用には、紙巻シガ
レットが支給されたようだが、絶対量は不足しており敵側ドイツ軍からの分捕り品が
珍重された。

 ロシア兵は、他国の兵士以上に煙草が大好き。アメリカ兵のようにキャンディだ
チョコだ、はてはコーヒーだなんて嗜好品はほとんど支給されないので、楽しみは
もっぱら行軍合間の気分転換や空腹をまぎらわすための喫煙。それに前線ではひとり
あたり1日100グラムが支給されることになっていたウォトカ(火酒)、さらにアコー
ディオンなどの伴奏があれば歌と踊りである。

 「おい、戦友! 一服しようか?」−イヴァン・イヴァーノヴィッチ伍長は、泥と
寒風の行軍途上の小休止、仲間を煙草に誘う。そして、ズダ袋のような背嚢から綺麗
な花の刺繍の入れられた巾着袋を取り出し、それを開けて匂いを嗅ぐ。一方、誘われ
た戦友も雑のう袋から、昨日図書館の焼け跡でひろった革装丁の立派な辞典を引っ張
り出し、1ページの半分を破り取り、それを更に半分にして二人分の巻紙をつくる。

 イヴァン・イヴァーノヴィッチは、戦友の差し出す巻紙に巾着袋のマホールカをひ
とつまみ載せ、自分の巻紙にも同じようにして巻いて端を舐めて唾でしめらせ、のり
の代わりにする。後は、マッチをすって火を入れ、一服…。

 ロシア兵の煙草文化というべき、この光景は独特で味がある。「分け合って吸う」
という行為が、戦友との絆を深めているようだ。どんなに辛いときでも、煙草を分け
合い一服した家族のような戦友たち。時には降参したドイツ兵にだって、ふるまって
やることもある。
ブダペスト市内のソ連兵(1944)


 こんなロシア兵の煙草文化をそのまま唄った歌がある。「一服しよう」≪Дава
йзакурим≫だ。

 戦時中、この曲をヒットさせたウクライナ人女性歌手クラウディヤ・シュリジェン
コによる次の映像を、歌詞の内容も踏まえて見ていただきたい。彼女によるロシア兵
のマホールカ巻きのゼスチャーに注目だ(歌詞内容は、提示のものと少し異なる)。

【シュリジェンコ「一服しよう」YouTube映像/1960年代前半】
http://www.youtube.com/watch?v=j1XHWRdwRdM

【歌詞】
(1)
Теплыйветердует, развезлодороги,
И наЮжномфронтеоттепельопять.
Таетснег в Ростове, тает в Таганроге.
Этидникогда-нибудьмыбудемвспоминать.
 (くりかえし)
Обогнях-пожарищах,
О друзьях-товарищах
Где-нибудь, когда-нибудьмыбудемговорить.
Вспомню я пехоту,
И роднуюроту,
И тебя -- зато, чтотыдалмнезакурить.
Давайзакурим, товарищ, поодной,
Давайзакурим, товарищмой!

(2)
НасопятьОдессавстретиткакхозяев,
ЗвездыЧерноморьябудутнамсиять.
СлавнуюКаховку, городНиколаев,
Этидникогда-нибудьмыбудемвспоминать.
 (くりかえし)

(3)
А когданестанетворя и в помине
И к своимлюбимыммыпридемопять,
Вспомним, какнаЗападшлипоУкраине,
Этидникогда-нибудьмыбудемвспоминать.
 (くりかえし)

【訳詞】
(1)
温かな風が 氷道をとかし
南部戦線にも また春が来た
ロストフの雪解けタガンログでも雪解け
いつかこの日々を きっと思い出すだろう
 (くりかえし)
戦火と 焼け跡を
かけがえのない 戦友のことを
きっといつか どこかで語り合うだろう
歩兵生活を、
ふるさとのような中隊を、
そして君と共に吸った タバコのことも
さあ、一服しようぜ 戦友、一本ずつ
一服しよう、わが戦友よ!

(2)
オデッサに戻った僕らを 市民は歓迎し
黒海の空に瞬く星が 僕らを照らす
栄えあるカホフカ、ニコラーエフの街
いつかこの日々を きっと思い出すだろう
 (くりかえし)

(3)
いつか 盗人どもを 追っ払って
僕らが 愛する人々の許に 戻った時
ウクライナを進み 西をめざしたことを
いつかこの日々を きっと思い出すだろう
 (くりかえし)


 どことなく気だるさの漂うこの曲は、1941年11月7日の10月社会主義革命24周年に
あたり、モデスト・イェフィモヴィッチ・タバチニコフ(1913-1977)が前線特派員
で詩人のイリヤ・リヴォヴィッチ・フレンケリと組んで創作したものだ。この時、首
都モスクワの門前まで迫ったドイツ軍は、9月以来の消耗戦で疲弊して停止し、南部
戦線でもアゾフ海にそそぐドン川河口部の都市ロストフ‐ナ‐ダヌー前面で激戦が続
いていた。

 6月22日の開戦以来、敗戦続きだったソ連軍もようやく強敵を食い止め、ほんの少
しの余裕が生じてきた状況だった。この時点で、「春先にはソ連側の大反撃戦が始ま
り、ドイツ軍・枢軸軍は西へと押しやられるだろう」と予測し、雪解けでぬかるんだ
道に悩みながらも反撃していくソ連兵士の姿を描こうとしたのが、「一服しよう」で
あった。

 やがて、12月初旬に入るとモスクワ、ロストフ‐ナ‐ダヌーの前面でソ連軍の大反
攻作戦が開始され、数百キロにわたりドイツ軍は押し返され、「一服しよう」の歌詞
のような状況が一時的に現実のものとなった。そして、1942年の春先、ラジオ放送で
この曲は発表されたのである。発表当初の原曲にほぼ忠実な演奏は、赤軍合唱団
(現・赤旗勲章2回受賞A.V.アレクサンドロフ記念ロシア陸軍アカデミー歌と踊りの
アンサンブル)による次の演奏だ。

【赤軍合唱団「一服しようぜ」mp3録音/1990年代】
(軍のアンサンブルと唄うシュリジェンコ)



 少しシャンソンの味付けもある「一服しよう」は、黒海の港湾都市オデッサのハイ
カラな雰囲気の中で育ったタバチニコフ作品の持ち味だ。彼は、オデッサを舞台にし
た劇映画の挿入歌「オデッサのミーシカ」などのヒット曲もあり、才能ある音楽家と
して既に独ソ開戦時には名が通っていた。1942年からは、ソ連第2親衛軍附属歌と踊
りのアンサンブル芸術監督に任命されていた。

 一方、作詞者フレンケリは方面軍機関紙「祖国の名誉のために」の特派従軍記者と
して、最前線の兵士たちを取材し記事執筆と詩作に活躍していた。彼の記事は、前線
兵士の息遣いを伝えるものとして人気が高かった。

 しかし、この味のある気だるさの中に”敗北主義的潮流“を感じたものもいた。ソ
連南部方面軍(ウクライナ〜クリミヤ戦区)の旅団政治委員リューミンは、「一服し
よう」を次のように批判した。

 「いったい、こんな曲が何で必要なんだ? たたかう戦友同志が分け合うべきもの
は、弾薬であり、敵への憎しみだ。煙草を分け合ったことを思い起こすとは、いった
いどういうことなのだ?」

 しかし、こうした難クセに対し、”援護射撃“もあり、「一服しよう」は葬り去ら
れずに済んだ。既に当時、スペイン戦争やノモンハン事件の優れたルポルタージュで
権威を獲得し後にスターリングラード攻防戦のルポ「昼も夜も」で名声を得ることに
なる作家で従軍特派員コンスタンチン・シーモノフがソ連軍機関紙「赤い星」でこう
論評したのだ。

 「前線の心が唄われている。兵士たちと共に前線にあった者だけが作れる曲と歌詞
であり、戦争とは何か、前線の兵士の生活とはいかなるものかを理解したものだけが
本当に唄える歌だ」

 言い得て妙である。「一服しよう」がラジオで流されると、特に前線兵士の間で爆
発的に流行した。既に「青いプラトーク」をヒットさせていたシュリジェンコも前線
慰問コンサートで盛んにとりあげ、人気を高めた。

 先に示した映像にあるように、兵士のマホールカ巻きの動作を絶妙なジェスチャー
で示す彼女のパフォーマンスは、どこの部隊でも大喝采であった。そして、1943年以
降、「一服しよう」の歌詞は現実のものとなり、ドイツ軍はソ連領土から追われ、ベ
ルリンで戦争の終止符が打たれた。
  しかし、「一服しよう」は復員兵士たちの心にいつまでも残り、戦後も長く愛唱
されてきた。1970年代の映画「モスクワは涙を信じない」の中でも、戦争を回顧する
象徴的な歌として取り上げられ、今日も若い歌手たちが思い思いにアレンジして唄い
続けている。

【クラウディヤ・シュリジェンコ「一服しようぜ」mp3録音/1943年】

【参考資料・「一服しよう」解説/サイト「ソヴィエト・ロシア軍歌集積所」】
・マホールカ煙草を分け合う独ソ戦時のロシア兵たち。巻紙には、焼け跡から拾って
きた辞典のインディアン・ペーパーが抜群だったとか。